「いのちに至る門」

「いのちに至る門」 マタイの福音書7章1節~14節

マタイの福音書22章で、律法の専門家が、イエス様を試そうとして36節「律法の中で、大切な戒めはどれですか。」と尋ねました。それに対して、イエス様は37節「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と言われました。また、39節「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。しかし、私たちは中々、そのように隣人を愛することができないのが現実ではないでしょうか。

1、人間関係の戒め(7章1節~5節)

イエス様は1節で、人を「さばいてはいけません。」と言われました。イエス様が言われた「(人を)さばく」とは、具体的には、次に説明されている「自分の目には梁がありながら、相手の目のちりを取らせてください。」という行為に代表されています。「梁」とは太い木材のことです。それに対比して、「ちり」は小さな異物を指します。自分の目には梁があるにもかかわらず、相手の目の中の小さなちりを取ろうとする愚かな行為。また、自分のことは棚に上げて、相手の失敗や欠点を非難する行為です。それに対してイエス様は5節でこのように教えています。「まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」自分の目から梁を取り除くとは(1)偏見を取り除くこと。人を色眼鏡で見ない。人を外見で判断しないことが上げられます。(2)自分自身のことを顧みることが大事ではないでしょうか。

2、聖なるもの(6節)

イエス様がここで言われた「聖なるもの」と「真珠」は同じものを差しています。そしてそれは、「神様のことば」「聖書のことば」のことです。また、「犬」と「豚」は、聖書のことばに無関心な者、または、悪意を持って神様を否定する者を指しています。ここで言われている「犬」とは、「野良犬」のことで、人に危害を与える犬のことを指しています。また「豚」はイスラエルの民には汚れた動物で、豚は食べてはいけない、豚にさわる者はその汚れを身に受けると忌み嫌われた動物です。イエス様は弟子たちに全世界に出て行って、福音(神様のことば)を伝えなさいと言われました。しかし、神様に関心のない者に神様のことばを伝えても、信じる者はいません。また、悪意を持ってキリスト教を否定する者に聖書のことばを伝えても、否定されるか、議論になるだけで、互いに益にはなりません。それゆえ、イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、豚の前に真珠を投げたしてはいけません。」と言われたのです。

3、熱心な祈り(7節~11節)

7節に書かれてあります「求めなさい。」「捜しなさい。」「たたきなさい。」という言葉は、言語に忠実に訳すなら「求め続けなさい。」「捜し続けなさい。」「たたき続けなさい。」という継続することばが使われています。この言葉は、あきらめずに祈り続けることの大切さを教えている個所ですが、気を付けないと自己中心な祈りになってしまいます。イエス様がこの個所で私たちに教えていることは、次に書かれている父と子の関係が大切です。父は子を愛し、パンを下さいと言う子に石を与える父はいません。また、魚を下さいと言う子に蛇を与えるような親はいません。ここで大切なことは11節「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょうか。」という言葉です。父は子が求めるもの全てを与えるわけではありません。約束のことばは「良いもの」とあります。ということは、どんなに熱心に祈っても、子にとって悪い物は与えないということです。また、私たちは父が子に与えるものはすべて「良いもの」であることを信じなければなりません。例えば、子がAと言うものを求めても、父がBと言うものを与えられたら、子はそれが良い物として(自分が願ったものでなくても)受け取るということです。イエス様は十字架に付けられる前に、ゲッセマネの園で「この杯(十字架の死)を取り除けてください。」と祈りましたが、「私のねがいではなく、あなたの御心を行ってください。」と祈りました。その結果、イエス様は神様の御心が十字架の死であることを受け入れ、十字架の道へと歩みだされたのです。自分の願に固執して祈ることは、熱心な祈りに見えて、実は自己中心な祈りで、神様を信じているのではなく、神様を利用しているに過ぎないのです。

4、人間関係の戒め(2)(12節)

12節のことばは、「ゴールデンルール」と呼ばれる、有名な戒めです。ユダヤ教や他の宗教では、「自分にしてもらいたくないことは、他人にもするな。」という教えはありますが、「自分にしてもらいたいことは他の人にもそのようにしなさい。」とは、積極的な教えです。それは、以前に学んだ「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」「下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」「一ミリオン行けと強いる者には、いっしょに二ミリオン行きなさい。」という戒めに繋がります。また、自分を犠牲にして相手のために善を行うことは、イエス様の愛(キリスト教の愛)につながる行為です。

5、狭い門といのちに至る門(13節14節)

「狭い門」と「いのちの門」同じ門です。その門は、小さく、狭くて見つけにくい門、または、一つしかない門の意味です。それに比較して、「滅びに至る門」は大きく、広い門で、多くの者がその門から入って行きます。ここで言われている。「狭い門」「いのちに至る門」はキリスト教を指しています。ある人は、キリスト教のイエス様を信じる者だけが天国に入れるという教えは、狭い教えだと批判します。その人々の考えは、神様は心が広いので、どんな神様でも信じれば天国に入れると考えます。確かに、神様は広い心をお持ちの方です。しかし、神の子イエス様が人として生まれ、十字架の上で自らの命を犠牲にされました。どんな神様でも熱心に信じたら、天国に入れるという教えなら、イエス様の死は無駄になってしまいます。また、人間が熱心に神様を信じたら天国に入れるなら、神様は一人子イエス様を犠牲にするでしょうか。イエス様以外に救いがないというのは、神の子イエス様だけが、私たちのために、十字架の上で尊い命を犠牲されたからです。神の子が何故、ご自分のいのちを犠牲にしなければならなかったのでしょうか。それほど、私たちの罪が重いからです。また、それは神様の愛の大きさを表しているのです。本来、私たちは知らずに、大きな門を通って、滅びに至る者でした。そこから私たちを救うために、神様はご自分の一人子を犠牲にされて救いの道を備えてくださいました。それが、救いの門、狭い門という意味です。