「すべてを益に変えられる神」

「すべてを益に変えられる神」 ローマ人への手紙8章28節

 五月に入りました。この時期「五月病」と言う言葉を耳にします。「五月病」とは、正式な病名ではなく、医学的には「適応障害」または「うつ病」と診断される病です。しかし、五月にこの症状に悩まされる人が多く出るので「五月病」と呼ばれるようになりました。受験勉強を頑張って望んでいた大学には入ることができたが、思い描いたような生活ではなく、こんなはずではと、自分の現在の環境に失望する所から、また、思い煩いや、これから先のことを思い悩むところから、心の病に発展するようです。

 今、旧約聖書の出エジプト記を毎日ディボーションの時間に読んで黙想しています。アブラハムの子孫、ヤコブの子どもたちは、飢饉を逃れるために、エジプトに移住しました。その数が70人であったと聖書に記されています。それから何百年とたちました。エジプトの総理大臣となり、飢饉からエジプトの民を救った、ヤコブの子ヨセフのことを知らない、エジプトの王が誕生しました。エジプトの王は、イスラエルの民の数の増大に恐れを感じ、ヤコブの子孫イスラエルの民(ヘブル人)に苦役を与え迫害を加えました。イスラエルの民はこの苦しみから助け出してくださいと神様に祈りました。そして、神によって遣わされたのがモーセです。モーセは、エジプトの地を10の災害で苦しめ、イスラエルの民をエジプトから助け出すことに成功しました。また、エジプト人の軍隊がイスラエルの民に迫った時、神は海を二つに分け、イスラエルの民は海の渇いた地を渡って対岸へと移動しました。エジプトの軍隊も、イスラエルの民を追って海の渇いた地に入りましたが、波にもまれて、エジプトの軍隊は全滅してしまいました。

 そして、イスラエルの民は荒野へと旅を続けました。ところが、あれだけの奇蹟を体験したにもかかわらず、彼らは、食べ物がない、水がないとモーセに文句を言いました。また、神様がイスラエルの民に与えると約束をしてくださったカナンの地に近づいた時、モーセは各部族から一人一人を選び、12人をカナンの偵察に送りました。彼らは40日後に戻ってきましたが、彼らの内、10名は、カナン人を恐れ、エジプトに引き返すべきだと報告したのです。その報告を聞いて、イスラエルの民は泣いたとあります。そして、彼らはエジプトに帰ろうと言い出したのです。彼らは、エジプトの迫害、苦しみから助け出してくださいと神様に祈ったのではないでしょうか。また、エジプトにおいて神様の奇蹟を体験したのではないでしょうか。しかし、今の彼らの環境は、彼らが望んだ環境ではありませんでした。先ほどの五月病と同じです。自分が思い描いた生活ではなかった。その時、人は不平不満が出てきます。

 神を信じるとは、神様の存在を信じることではありません。また、神様を信じるとは、自分の願を叶えてくれるから、また、幸いな人生を与えてくれるからではありません。ご利益宗教と言われる宗教は、病のいやし、お金持ちになれる、幸せになれる、願いがかなえられると人々を勧誘します。しかし、キリスト教はそのようなご利益宗教とは違います。もちろん、病のいやしのために祈るし、幸いな人生が送れるように祈りますが、それが全てではありません。では、私たちは何を信じているのでしょうか。私たちが神を信じるのは、神が私たちを愛し、すべてを益に変えてくださることを信じているからです。全てとは、良いことも悪いことも含めた全てです。

 旧約聖書にヨブ記と言う個所があります。ヨブ記のテーマは「義人はなぜ苦しむのか」です。ヨブは神に正しい人と認められる、正しい人「義人」でした。しかし、そこにサタンが登場し、神が義人と認めたヨブについて異議を唱え、神様に挑戦しました。そこで、ヨブはサタンから苦しみが与えられました。それでも、ヨブは苦しみに耐え、神の御名を汚す言葉を口にしませんでした。ところが、ヨブの苦しみ聞いて、ヨブの友達たちがヨブを慰めるためにヨブを見舞いに来ました。ところが、この友人たちは、ヨブの状態のあまりの悲惨さに驚きました。そして、この状況を招いたのはヨブの罪の結果だと判断し、ヨブに罪を悔い改めて、神様に罪を告白するように迫ったのです。彼らの信じる神様は「因果応報」の神様でした。「因果応報」とは、良いことをする者を神は祝福し、悪いことをする者は神様から罰を受けるという考え方です。彼らの考えからすれば、この状況を招いた原因はヨブの罪であり、その罪を悔い改め神様に助けを求めるなら、もう一度、幸いな人生を歩くことができると言うものでした。しかし、「因果応報」の考えは、不完全な考えで、苦しみについて、すべてを納得させる教えではありませんでした。特に、ヨブの苦しみはヨブの罪の結果ではありません。それゆえ、ヨブはこの友人たちと長い論争をしなければなりませんでした。最後に神様が登場し、自分の正しさのゆえに、神様を罪に定めようとするヨブの罪を指摘します。ヨブは人間でありながら神様を罪に定めようとした自分の愚かさを認めて、神様の前に悔い改めました。ヨブはこの苦しみを通して、神の偉大さを知り、自分が神様の前に何も知らない愚かな者であることを悟ったのです。この後、ヨブは、以前に増して、神様から祝福を受けました。この事から私たちは、苦しみの原因(神様の計画)をすべて知ることは出来ないということを学びます。

 新約聖書のヨハネの福音書9章に、生まれつきの盲人の話が登場します。弟子たちはこの盲人を見てイエス様に尋ねました。2節「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それとも両親ですか。」この質問は、日本でもよく聞かれます。家族に不幸があると、先祖の祟りか、両親の罪か。そのように、私たちも不幸の原因探しをします。イエス様は彼らに言われました。3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」イエス様はこの後、彼の目をいやし、ご自分が救い主であることを証明されました。不登校や家族の問題で、簡単に犯人捜しをしてはいけない教えられます。妻は、夫の無関心を責め、夫は妻の責任にします。しかし、家族の問題、不登校の問題の原因は一つではなく、複合的なことが重なって起きることがほとんどです。それゆえ、単純に原因を捜し出し、取り除けばそれで解決と言うわけにはいきません。それゆえ、犯人捜しをしないようにとおしえられているのです。

 苦しみには、色々な意味があり、単純に理解するべきではありません。その時にはわからなくても後になって、その苦しみの意味を知る時があります。または、生涯わからないかもしれません。しかし、それも受け入れるべきです。私たちが知らなくてもよい理由もあります。先ほどのヨブの場合、ヨブは自分の苦しみの意味を生涯、知ることがありませんでした。しかし、ヨブは、神様の御業としてそれを受け入れたのです。

 カトリックのシスターで広島にある、ノートルダム清心学園の理事長の渡辺和子さんが書かれた「置かれた場所で咲きなさい」という有名な著書があります。ここで言われている「置かれた場所」とは、神様によって「置かれた場所」という意味です。どんな環境、自分が望んだ環境ではなくても、不平や不満を言わずに、置かれた状況を受け入れ、自分らしく生きなさいと教えています。不平不満を言うことは簡単です。しかし、よくよく周りを見るなら、また、少し時間をおいて周りを見るなら、今まで気づかなかったことに目が留まるのではないでしょうか。ローマ人への手紙8章28節の御言葉「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。「すべてのことを」とは、良いことも悪いことも、自分が望んだ状況ではなくても、それを神様が益に変えてくださるということです。私たちは神様への信頼があって初めて、このみことばを信じることができるのです。