「イエスが愛したラザロの死」

「イエスが愛したラザロの死」 ヨハネの福音書11章1節~27節

 マルタとマリヤの姉妹とイエス様は親しい関係にありました。マルタの家はベタニヤにあり、その住まいはエルサレムから三キロメートルのところに位置していました。イエス様と弟子たちは、エルサレムに来るたびにこの家に滞在し、しばらく休息の時を持っていたようです。また、マルタ、マリヤの両親の名前が出て来ないので、両親はすでに亡くなり、マルタ、マリヤ、ラザロの三人で暮らしていたようです。また、その家は、弟子たちも滞在できるほどの大きな家で、マルタの家はお金持ちではなかったかと思われます。

 2節「このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。」とあります。マリヤがイエス様の御足に香油を塗り髪の毛でぬぐう場面は次の12章に登場します。問題は、この時、ラザロが死ぬほどの重い病にかかっていたということです。3節「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたの愛しておられる者が病気です。』」マルタとマリヤは今まで、イエス様がたくさんの病人をいやされたことを知っていました。そこで、二人はラザロの病をいやしていただくために、イエス様に使いを送ったのです。では、イエス様はその知らせを聞いて、すぐにラザロのところに駆けつけたでしょうか。6節「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」とあります。イエス様はラザロの病気のことを聞いて、あえて二日間その場所に留まられました。それにはわけがありました。4節を見ると、イエス様がラザロの病気のことを聞いてこのように言われました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」また、5節「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあります。イエス様はマルタとマリヤ、ラザロを愛しておられたので、あえて、二日滞在し、ラザロが確実に死ぬ時を待っておられたのです。また、ラザロの死は、死んで終わりではなく、この後、イエス様が死んだラザロを生き返らせることによって、イエス様の人気は最高潮に達します。イエス様がエルサレムに入られる時、人々は大歓迎でイエス様を迎えました。彼らは、イエス様がエルサレムでも奇跡を行い、ローマの兵隊を追い出し、イエス様がユダヤの王となり、ユダヤの国の独立を宣言するものとイエス様に期待したのです。

 ヨハネの福音書で用いられる「神の栄光」とは、「十字架の死」を意味しています。イエス様がラザロを死より甦らすことによって、イエス様の人気は最高潮に達しました。そのために、祭司たちや、律法学者たちは、イエス・キリスト殺すことを決心したのです。それゆえ、ラザロの死と甦りによって、イエス様の十字架の死が決定されたと言ってもよいぐらい、ラザロの死と復活には大きな意味がある出来事だったのです。もし、イエス様が急いで、ラザロのもとに行き、ラザロの病をいやしたならば、神の栄光とはならなかったでしょう。イエス様は、ラザロを死から甦らすことによって、ご自分の死が決定的になるのを知っておられたので、あえて、その場に二日間滞在して、ラザロが死んで四日目に、ベタニヤに着くように計画されたのです。

 イエス様がベタニヤの町に入ると、ラザロはすでに死んでおり、墓に入れられて四日もたっていました。マルタはイエス様を迎えてこのように言いました。21節22節「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」マルタの気持ちは、イエス様がもっと早く来てくださったなら、ラザロは死なずにすんだのに、しかし、今となってはどうすることもできない。という気持ちです。イエス様は彼女に言われました。23節「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはそれを聞いてイエス様に言いました。24節「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエス様は、今、この場でラザロがよみがえることを話したのですが、マルタは終わりの日に、多くの人々がよみがえる時、ラザロもその時にはよみがえることを信じていますと答えたのです。イエス様は彼女に言われました。25節26節「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエス様に言いました。27節「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神のキリストである、と信じております。」マルタがイエス様と出会った時、マルタはイエス様を神から遣わされた預言者と信じていました。それゆえ、イエス様が神様に祈るならば、神様がどんな病をもいやされると信じていました。しかし、彼女はイエス様との会話によって、イエス様が預言者ではなく、「神のキリスト(救い主)」であると信仰告白をすることができたのです。

 死とは何でしょうか。人間は死に対して無力です。マルタのように、病気ならいやすことができても、いくらイエス様でも死んだラザロにはなにもできない。これがマルタのイエス様に対する正直な気持ちではないでしょうか。しかし、イエス様は神、神の子です。人であっても神の権威を持ったお方です。人の命は神様の御手の中にあります。神は人に命を与え、また、人から命を奪うお方です。イエス・キリストは神の子で、人となられたお方です。イエス様にも神と同じ力が宿っています。神は死に支配されません。本来、イエス様も死に支配されないお方でしたが、肉体を持って人となられた時、この地上での死に支配されました。しかし、イエス様の本質は神様ですから、イエス様が死んだ後、死はイエス様を支配することは出来ませんでした。それゆえ、イエス様は三日目に死より復活されたのです。また、聖書で言われている「永遠のいのち」とは、この世で永遠に死なないいのちではありません。また、人が死んでから永遠に生きるいのちでもありません。永遠のいのちとは、永遠なるイエス様を信じることによって、イエス様と一つになること、それが永遠のいのちです。それゆえ、私たちはイエス様を神の子と信じた時点で、すでに永遠のいのちを持つ者とされました。ラザロが死より生き返ったことは、イエス様が神の子であることの証明であると共に、この永遠のいのちがイエス様の内にあることを証明する奇蹟だったのです。私たちにもいつか、死は訪れます。しかし、恐れる必要はありません。なぜなら、私たちは死んだ後に行く所がはっきりしているからです。イエス・キリストの十字架の死、それは、私たちの罪が赦され、永遠の御国、天国の門を開くための死でした。ユダヤ人たちは、自分たちの良い行いによって、この門を開こうとしましたが、だれも達成することができませんでした。罪の無い、神の子の命が支払われて、初めて、この天国の門は開かれるからです。人の努力ではこの門を開くことができませんでした。それゆえ、イエス・キリストが自らの命を犠牲にしてこの門を開いてくださったのです。私たちに与えられた救いの道は一つだけです。神の子が自らの命を犠牲にして開いてくださった天国の門から入る道だけです。イエス様は言われました。マタイの福音書7章13節14節「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」