「神の愛が私たちの心に注がれている」

「神の愛が私たちの心に注がれている」 ローマ人への手紙5章1節~5節

 キリスト教の中心は「救い」です。では、私たちは何から救われる必要があるのでしょうか。貧困からの救いであるならば経済的な救済が必要となります。病からの救いであるならば、医学やお医者さんの働きが必要となります。聖書が私たちに教える「救い」とは「罪」から救われることです。「罪」とは、何でしょうか。一般的には国の法律を犯すことであり、守らないことです。しかし、法律は国によって違いがあります。それは、人間が定めた法律だからです。聖書が私たちに守るように教えた戒めは神様が定めた法律です。私たちはどこの国民であっても、最後は、神様の前に立たなければなりません。私たちを裁くお方は、国の法律ではなく、天地を創られたまことの神様です。そういう意味では、私たちは、神様が与えてくださった聖書のことばを知らなければ、神様の前に正しい者として立つことができないということです。

 人はなぜ、罪を犯すのでしょうか。そのことについて二つの立場があります。「性善説」と「性悪説」です。「性善説」は生まれた時には、人に罪はないが、人は環境によって罪を犯す者になるという考え方です。「性悪説」は、人は生まれつき罪人であるという考え方です。キリスト教は「性悪説」の立場を取ります。創世記の1章で、神は六日間で全てを創造され七日目に休まれたとあります。その時は、罪も無く、非常に良かったと聖書に記されています。それから、2章に進んで、神様はアダムに一つだけの戒めを与えられました。創世記2章16節17節「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」しかし、創世記の3章に進んで、へび(サタン)がエバを誘惑しました。そして、アダムとエバは、神様の戒めを捨てて、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。その結果、二人に何が起こったでしょうか。二人はすぐに死ぬことはありませんでしたが、神様の声を聞いて、木の陰に身を隠したとあります。そして、二人は、エデンの園から追い出されてしまいました。確かに、二人はすぐに死ぬことはありませんでしたが、神様との親しい関係(特権)を失い、霊的な死に至り、肉体的な死をも身に受ける者となってしまったのです。

 新約聖書のもう一つのテーマは「神との和解です。」ローマ人への手紙5章1節「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。「平和」という言葉の中に「神との和解」の意味も含まれています。以前は、罪によって神様に退けられた存在でしたが、イエス様の十字架の死によって私たちは、罪赦された者となり、神様との親しい関係(神との平和)を取り戻すことができたという意味です。

 その「平和」は「神との和解」だけではなく、神様との親しい関係をも回復することができました。私たちの生まれつきの性質では、「患難や苦しみ」を喜ぶことは出来ません。しかし、神様と和解した私たちには神様からの愛が注がれ、私たちは、患難や苦しみを喜ぶことができる者と変えられたのです。なぜなら、ローマ人への手紙5章3節~5節「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」とあります。神様を信じるとは、「患難や苦しみ」が無い人生を歩むということではありません。神様に愛されていても、「患難や苦しみ」はあります。しかし、神様は私たちを苦しめるために患難を与えるわけではありません。「患難」を通して、私たちを強めたり、気づきを与えるために「患難」を与えることがあります。そのような「患難」の時に神様はどのように私たちを強めることができるのでしょうか。5節の後半「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。私たちが、神様との関係を回復するということは、主人としもべの関係を回復するということではありません。イエス様を通して「父と子」の関係を回復するということです。「父と子」の関係を回復するということはどういうことでしょうか。何でも祈っていい、自分の気持ちを神様にぶつけてもいいということです。神様はそれを受けって下さるお方です。

 列王記第一の18章において、バアルの預言者四百五十人とエリヤとの戦いの場面が描かれています。お互いに祭壇を築き、天から火を下した神が本当の神であることを証明しようとしました。バアルの預言者たちが祭壇の周りで踊ったり、剣で互いに傷つき合っても何の変化も起こりませんでした。そこで、エリヤが神に呼ばわると天から火が下り、祭壇を焼き尽くしました。これによって、イスラエルの神こそが真の神であることが証明され、イスラエルの民はバアルの預言者たちを河原で殺しました。しかし、それを聞いたイスラエルの王アハブの王妃イゼベルは、列王記第一19章2節「すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。『もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。』」イゼベルは怒って、「エリヤを生かしておけない殺してやる」と伝えたということです。エリヤはイゼベルを恐れて身を隠しました。そして、神様にこう祈りました。4節「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。『主よ。もう十分です。私のいのちを取って下さい。私は先祖たちにまさっていませんから。』」エリヤはあれだけの奇蹟を行ったにも関わらず、イスラエルの国が変わらなかったこと、また、イゼベルにいのちを狙われれたことで、疲れと失望のゆえに、神様に自分の死を願ったのです。自分の死を神様に訴えることができるのは、神様との親しい関係があるからできることです。神様もエリヤを受け入れ、御使いを通して、焼いたパン菓子と水の入ったつぼを与えて、疲れたエリヤを助け励ましたのです。

 祈りとは、自分の願を一方的に投げかけるだけではありません。祈りは、神様とのコミュニケーションの時です。それゆえ、言葉を飾る必要はありません。本音でぶつかり、自分の本音を神様に告げることです。神様はそれを喜んで聞いてくださるお方です。罪を犯す前のアダムと神様の関係は親しいものでした。しかし、その関係を壊したのがアダムの罪でした。私たちはアダムと同じように、罪を犯し、神様との親しい関係を失ってしまいました。それを回復してくださったのがイエス様です。イエス様が十字架の上で私たちの身代わりとなって下さったゆえに、今、私たちは罪赦され、神の子となり、神様との親しい関係を回復することができたのです。それゆえ、困ったと時だけではなく、いつでも、本音で神様に祈り、神様も私たちの本音を受け取って下さるのです。