わたしがいのちのパンです

ヨハネの福音書6章1節~15節

マルコの福音書を引き続き見ると、ヤイロの娘を生き返らせた後、イエスは郷里で伝道しました。しかし、そこでは彼らの不信仰のゆえに何人かの病人をいやしただけで終わってしまいました。その後イエスは、12人を二組ずつに分け伝道に遣わしました。そして、マルコの福音書6章14節からバプテスマのヨハネがヘロデ王に殺されたことが記されています。また、34節から44節に五つのパンと二匹の魚で、男性だけで五千人のお腹を満たした奇跡の話があり、弟子たちが舟で漕ぎあぐねているところに、イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに近づき、弟子たちがイエスを見て幽霊だと恐れた場面が描かれ6章が終わっています。

今日はその出来事の中から、「五つのパンと二匹の魚」の奇跡から学びます。この奇蹟はマタイの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書にも記されている特別な奇蹟です。特にヨハネの福音書では、奇蹟自体よりも、その後になされたイエス様と群衆との会話に重点が置かれています。マタイの福音書、ルカの福音書、マルコの福音書は、イエスの力と権威に強調点が置かれていますが、ヨハネの福音書はイエスのことばを通して、イエスが誰であるのかに強調点が置かれ、また、永遠の命について宣べられています。

 ヨハネの福音書6章1節2節「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。」とあります。5節「イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか。』」7節「ピリポはイエスに答えた。『一人ひとりが少しづつ取るにしても、二百デナリのパンではたりません。』」二百デナリは現在の二百万円に相当します。ピリポの答えは、「無理です不可能です」という返答でした。アンデレがイエスに言いました。

9節「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹も持っている青年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」アンデレは何とかしようと、調べたのでしょう。しかし、少年の持っていた五つパンと魚二匹しかありませんでした。そこで、アンデレもあきらめて、それが何になるでしょうとイエスに答えたのです。イエスは群衆を座らせて言いました。11節「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。」12節「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。『一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。』」すると十二のかごがいっぱいになったとあります。14節「人々はイエスがなさったしるしを見て、『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。」とあります。そして、人々はイエスを王にしようと連れて行こうとしました。しかし、イエスはそれを知って一人で山に退かれました。

夕方になってイエスは弟子たちを舟に載せて先にカペナウムに向かわせました。しかし、弟子たちは強風のために舟を漕ぎあぐねていました。そこにイエスが湖を歩いて来て、舟に乗るとすぐに目的地に着いたとあります。群衆はイエスがいないのに気付き、舟で後を追いかけました。イエスは彼らに言われました。26節27節「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしをみたのではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」群衆はイエスに言いました。31節「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」彼らは出エジプトの時に、神がモーセを通して与えられたマナという食べ物のことを持ち出しました。確かに、あの時イスラエルの民は荒野で40年マナという食べ物が与えられました。32節33節「それで、イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えて下さるのです。神のパンは天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。』」イエスはモーセを通してイスラエルの民に与えられたマナという食べ物は、まことの神のパンではないと言われ、まことの神のパンは世にいのちを与えるために与えられると言われました。それを聞いて彼らは、34節「主よ、そのパンをいつまでも私たちに与えてください。」と言いました。35節「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」これが五つのパンと二匹の魚の奇跡の結論です。群衆はイエスが五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人以上の人々を満腹させたことに驚き、イエスこそ神から遣わされた預言者だと信じました。しかし、イエスはそうではなく、神は人々の救いのために、自分のいのちを犠牲にされる、神の子を与えられたと証言されたのです。

51節「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」

イエスがご自分のことを「生けるパン」と言い、「このパンを食べるなら永遠に生きます。」と言われたので、群衆はそのパンをどのように食べさせるのかと議論したとあります。53節「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。』」このことばはユダヤ人たちに誤解を与えました。旧約聖書の戒めでは、血のついたままで肉を食べたり、血を飲むことは禁じられていました。60節「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。『これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう。』」66節「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」とあります。確かにイエスのことば通り理解すればひどいことばです。しかし、イエスが言われたことは、本当にイエスの肉を食べ血を飲むということではなく、イエスを救い主と信じるということです。しかし、彼らはイエスのことばの意味を理解することが出来ませんでした。67節「それで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいのですか。』と言われた。」ペテロがイエスに答えました。68節69節「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」弟子たちは、イエスの様々な奇蹟を体験し、イエスが神から遣わされた者であると信仰告白をすることができたのです。それがイエスと共生活した十二弟子と、他の弟子たちとの違いでした。

キリスト教において、信仰を持つとは、一生懸命努力して信仰を高めるとか、厳しい修行を経て得るものではありません。イエスは最後の晩餐において弟子たちに言われました。マタイの福音書26章26節~28節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。『この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。』」ルカの福音書でイエスは、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と言われました。私たちはこのイエスのことばに従って「聖餐式」を毎月守っています。イエスはなぜ、弟子たちに「聖餐式」を守るように言われたのでしょうか。それは、私たちの信仰が弱く、イエス・キリストから離れやすいからです。私たちは「聖餐式」を通して、イエス・キリストがなされた愛の行為を思い出し、また、聖霊の恵みによって強められるためです。悪魔は霊的な存在で、私たちより力があります。その悪魔の一番の働きは私たちからイエス・キリストを引き離すことです。私たちは悪魔と戦って勝てるほど力があるわけではありません。それゆえ、私たちは聖餐の恵みによって助けを得る必要があります。「聖餐式」は、それほど私たちクリスチャンにとって大切な儀式です。悪魔は私たちをイエスから引き離そうと歩き回っています。それゆえ、私たちも自分の弱さを認め、「聖餐式」を通して、聖霊より力を受け、また日々、神に助けを祈り求める必ようがあるのです。