アブラハムが受けた試練の意味

創世記22章1節~19節

今日は、アブラハムが受けた試練から学びます。私たち日本人は祝福は神から与えられ、禍は悪魔から与えられると考えてしまいがちです。しかし、聖書は神が全てを支配しておられると教えています。それならば、祝福も禍も神から与えられると考えられます。旧約聖書のヨブ記を見ると、ヨブの苦しみはサタン(悪魔)から与えられたものですが、神はサタンがヨブを苦しめることを認め、制限を設けていることがわかります、そこからわかるのは、苦しみはサタン(悪魔)の仕業ですが、そのサタン(悪魔)でさえ、神の許可なくして人を苦しめることが出来ないという事です。そう考えるならば、全ての苦しみには神の意図があり、目的があって与えられると考えられます。神はアブラハムにイサクを全焼の生贄としてささげるように命じました。そこにはどのような神の意図があり、アブラハムはなぜ、そのような試練に従うことが出来たのかを学びます。

 創世記22章1節「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は『はい、ここにあおります』と答えた。」2節「神は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。』」アブラハムは翌朝早く出かけたとあります。6節「アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。」とあります。このことばから、すでにイサクは幼いこどもではなく青年に成長していたと考えられます。7節「イサクは父アブラハムに話しかけて言った。『お父さん。』彼は『なんだ。わが子よ。』と答えた。イサクは尋ねた。『火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。』」8節「アブラハムは答えた。『わが子よ、神ご自身が全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。』こうして二人は一緒に進んで行った。」この時点でアブラハムは神が羊を備えて下さるという確信があったわけではありません。ただ、イサクを納得させるためにそのように言ったのでしょう。9節「神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。」10節「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」とあります。その時、主の使いがアブラハムを止めました。11節「そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。『アブラハム、アブラハム。』彼は答えた。『はい、ここにおります。』」12節「御使いは言われた。『その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。』」13節「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた、」14節「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、『主の山には備えがある』と言われている。」15節~18節「主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、こう言われた。『わたしは自分にかけて誓う――主のことば――。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。』」

ここまでが、この出来事のあらましです。アブラハムは何故、このような試練(苦しみ)に遇わなければならなかったのでしょうか。確かに、イサクはアブラハム100歳サラ90歳の時に生まれた(神によって授かった)子です。また、イサクはアブラハムを大いに祝福し子孫を与え、その子孫が空の星、海の砂のように増え広がるという神との約束の子です。アブラハムとサラの二人にとってとても大事な存在でした。しかし、二人の心の中で、イサクの存在が大きくなり、神以上、神と同じぐらい大切な存在になっていたとしたら、それは偶像礼拝になってしまいます。偶像礼拝とは、異教の神々を礼拝することだけではありません。神よりも、家族が大切。財産が大切。仕事が大切。才能が大切となるならば、それらはすべて偶像礼拝になってしまいます。特にイサクは神より賜ったひとり子です。知らない間に二人の心の中で、神よりも大切な存在になっていたと想像できます。そのことは二人にとって気付きにくいことでした。それゆえ、神はアブラハムにそのことを気づかせるために、この試練を与えたのです。アブラハムもその事に気づき、神のことばに従ってイサクを全焼の生贄としてささげる決心をしたのです。しかし、アブラハムはただ、イサクをささげるだけではなく、その背後に神の計画があり、この事をも神が益に変えてくださるという信仰があったからこそ、神のことばに従うことが出来たのです。

確かに、この試練はアブラハムにとって苦しい選択でした。しかし、彼はこの試練を通して自分の間違い(神よりイサクを大事に思う気持ち)に気が付き、イサクを神にささげる決心が出来ました。また、神がイサクの代わりに雄羊を用意してくださっていたことを通して、試練の先に神の祝福があることを学んだのです。旧約聖書ヨブ記に登場するヨブも苦しみを通して、神との信頼関係を深めることができました。私たちは何もしないで、忍耐を身に着けることはできません。神は苦しみや試練を通して私たちに忍耐を教えます。また、苦しみを通らなければ体験することが出来ない神の祝福もあります。ヤコブの手紙1章12節「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ペテロの第一の手紙1章7節「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」へブル人への手紙12章11節「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」苦しみや試練には色々な意味があります。しかし、苦しみや試練が神より与えられるなら、そこに意味があり、神より耐える力が与えられます。また、その先に神の祝福があるという事です。聖書の中にはそのように試練に耐えた人々がたくさん登場します。私たちも神に信頼して歩みたいと思います。