イエス・キリストの復活の証人

ヨハネの福音書20章19節~29節  イースター礼拝

今日は、イースターの特別な礼拝の日です。イースターを日本語では復活祭と呼びます。

イエス・キリストは無実の罪で捕らえられ、十字架に付けられて殺されました。しかし、イエス・キリストは神の子であるゆえに、死より三日目に復活し、40日の間、弟子たちにその姿を現し、天の父なる神の御許に昇天されました。イエス・キリストはご自身が死より復活された物的証拠は残されませんでした。しかし、その代わりに、ご自分の弟子たちに復活の姿を現し、弟子たちの証言を通して、ご自身の復活を証しされたのです。今日は、イエスの復活の証人となった、トマス、ペテロ、パウロの三人からイエスの復活について学びます。

1、トマス(ヨハネの福音書20章19節~29節)

 ヨハネの福音書20章19節20節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて、戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」とあります。「週の初めの日」とは、日曜日のことです。弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸に鍵をかけ隠れるように身を寄せていました。そこに、復活したイエスが弟子たちの前に姿を現したのです。弟子たちはどんなに驚いた事でしょう。また、イエスは弟子たちにご自分であることを示すために、釘で打たれた手の傷跡と、槍で刺された脇腹を示されました。弟子たちはその傷を見てイエスだとわかり喜んだのです。

24節「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」とあります。トマスがなぜ、その場にいなかったのかは、わかりませんが、彼一は人復活されたイエスに会うことが出来ませんでした。25節「そこで、ほかの弟子たちは彼に『私たちは主を見た』と言った。しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。』と言った。」あります。トマスは、傷跡を見るだけではなく、釘の跡に指を入れ、脇腹に手を入れてみなければ信じないと、弟子たちの証言(復活のイエスを見たという証言)を強く否定したのです。

26節27節「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』イエスはトマスのことばを聞いており、彼の願い通りに、手の釘跡と脇腹を差し出しました。28節「トマスはイエスに答えた。『私の主。私の神よ。』」29節「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。』ここに、イエスが復活の物的証拠を残さなかった理由があります。神の御心は、私たちがイエスの復活の物的証拠やイエスの夢や幻を見てイエスの復活を信じるのではなく、弟子たちの証言「聖書のことば」を通して、イエスの復活を信じるようにされたとのです。

2、ペテロ(マタイの福音書26章31節~74節)

ペテロは十二弟子の中で頭的な存在でした。しかし、彼はイエスを裏切るという大きな罪を犯してしまいました。マタイの福音書26章31節「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。』『わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる。』(旧約聖書ゼカリヤ13章7節)と書いてあるからです。」33節「すると、ペテロがイエスに答えた。『たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。』」34節「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。』」35節「ペテロは言った。『たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。』弟子たちはみな同じように言った。」とあります。

しかし、ペテロがイエスの裁判を見ているとき、イエスの弟子ではないかと声を掛けられ、ユダヤ人を恐れ、自分がイエスの弟子であることを三度も否定してしまいました。マタイの福音書26章69節70節「ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使の女が一人近づいて来て言った。『あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。』ペテロは皆の前で否定し、『何を言っているのか、私には分からない』と言った。」71節72節「そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。『この人はナザレ人イエスと一緒にいました。』ペテロは誓って、『そんな人は知らない』と再び否定した。」73節「しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。『確かに、あなたもあの人たちの仲間だ、ことばのなまりで分かる。』」74節「するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め『そんな人は知らない』と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。」とあります。もし、ペテロがこのまま、復活したイエスと出会わなかったら、再び弟子たちの頭(リーダー)にはなれなかったでしょう。ヨハネの福音書21章で復活したイエスは弟子たちにその姿を現されました。また、ペテロにだけ特別に、わたしを愛しますかと三度声を掛けました。(ヨハネの福音21章15節~19節)ここにイエスの赦しのことばがあります。ペテロはイエスを三度知らないと言いました。ここでイエスはペテロに三度あなたは私を愛しますかと問いかけました。ペテロも、三度イエスに答えることによって、自分の罪が赦されたことを知り、もう一度、イエスの弟子として立ち上がることが出来たのです。復活したイエスとの出会いなくして、ペテロは二度とイエスの弟子とはなれなかったのです。

3、パウロ(使徒の働き9章1節~19節)

 使徒の働き9章1節2節「さて、サウロ(パウロ)はなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸教会宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」とあります。パウロは神に熱心であるがゆえに、キリスト教が間違った教えと信じ迫害しました。そのパウロがダマスコに行く途中で、復活されたイエスに出会ったのです。

3節「ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天から光が彼の周りを照らした。」4節「彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。』5節6節「彼が、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。』」8節「サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。」その後、神はアナニヤを通して、彼の眼を開かれました。サウロ(パウロ)は、イエスの弟子たちの証言が正しく、イエスの復活が真実であることを知りました。そして、自分が間違っていたことを認め、悔い改めて洗礼を受けました。そして、イエスの復活を宣べ伝える者に変えられたのです。復活したイエスと出会わなければ、キリスト教を迫害していたパウロがこのように変わることがあるでしょうか。イエスとの出会い以外に彼が変わった理由を見つけることはできませ。神は、今も私たちに出会ってくださいます。そして、私たちの変えられた生き方を通して、イエス・キリストが今も生きて働かれていることを証されておられるのです。