マルコの福音書7章24節~30節
イエスは律法学者たちとの論争の後、彼らから離れ、ガリラヤ湖北方のフェニキア地方ツロの町に行かれました。イエスのうわさはこの地方にも伝わっており、イエスがおられると聞いて、一人の女性がイエスに助けを求めにやってきました。彼女はイエスの足元にひれ伏し、26節「自分の娘から悪霊を追い出してくださるように願った。」とあります。マタイの福音書では、彼女はイエスに「主よ、ダビデの子。」と呼び掛けています。ユダヤ人たちは、救い主はダビデの子孫から生まれると信じていました。それゆえ、ユダヤ人がイエスをダビデの子と呼ぶのは、イエスが来るべき救い主であることを認めての呼び方です。しかし、この女性は異邦人(ユダヤ人以外の民族)であり、フェニキア地方に住んでいる女性です。イエスは、彼女の信仰を試すために、27節「するとイエスは言われた。『まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。』」と言われました。ここでイエスが言われた「子どもたち」とは、ユダヤ民族を表しています。また、イエスは異邦人を「子犬」にたとえ、自分はユダヤ人の救いのために神より遣わされた者で、異邦人であるあなたを助けることはできないと言われたのです。イエスは、彼女の信仰を試すために、あえて、異邦人であるあなたと、わたしは関係のない者であると差別的なことばを使われたのです。ここで、彼女はイエスの言葉を聞き、怒ってイエスの前から去ることもできました。しかし、彼女はイエスにこのように言いました。28節「彼女は答えた。『主よ。食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずはいただきます。』」彼女は自分が異邦人で、神の恵みを受ける資格がない者であることを認め、神の前に自分を低くし、それでも、神の憐れみ、パンくずのような小さな恵みでもよいから、娘を助けてほしいとイエスにすがったのです。マタイの福音書では、この言葉を聞いてイエスは彼女の信仰をほめています。マタイの福音書15章28節「そのとき、イエスは彼女に答えられた。『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたの願うとおりになるように。』彼女の娘は、すぐにいやされた。』」とあります。イエスは、異邦人であっても、自分を神の前で低くする者を無視されることはありません。イエスは、彼女の謙遜な姿を見て、彼女の願いを聞かれ、彼女の娘を悪霊から助け出されたのです。確かに、神の計画は、第一にユダヤ人たちに救いのことばを宣べ伝えることでした。その次に、ユダヤ人を用いて異邦人(世界中の人々)に救いのことばを宣べ伝えることが神の計画でした。しかし、ユダヤ人たちは、この救いの計画を受け入れることが出来ず、イエスを捕らえ、十字架に付けて殺してしまったのです。それゆえ、救いはユダヤ人から異邦人(ユダヤ人以外の民族)に宣べ伝えられることになったのです。
確かに、ユダヤ民族は、アブラハムの子孫として神から特別に選ばれた民です。しかし、彼らは、自分たちこそ、神に選ばれた清い民であると自慢し、自分たち以外の民族を異邦人と呼び、彼らは汚れた民であり、彼らと親しく交わることを禁じるようになったのです。これを選民意識と呼びます。自分たちこそ神に救われる民であり、異邦人は神から恵みを受ける資格がない者と彼らは考えたのです。しかし、それは間違った考えでした。神は、ユダヤ人であっても神の前に高慢な者を退け、異邦人であっても自分を低くする者を受け入れて下さる神です。ルカの福音書18章9節から14節で、イエスは、自分は正しいと確信していて、他の人々を見下している人たちに、一つのたとえ話をされました。二人の人が祈るために宮に上りました。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人です。パリサイ人は立って心の中で、このような祈りをしました。11節12節「神よ、私が他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを確信しています。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」13節「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。『神様、罪人の私を哀れんでください。』」と祈りました。どちらが神に義と認められたでしょうか。14節「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」と言われました。パリサイ人とは、ユダヤ教の教えに熱心で、人々に神の戒めを守るように教えるユダヤ教の指導者です。また、彼の行いは正しく、収入の十分の一を神に収める、まじめなユダヤ教の模範的な信仰者です。かたや、取税人は、ローマ政府に仕え、ユダヤ人から税金を徴収する仕事を行っていたため、ユダヤ人から恨まれていました。また、彼らは不正に税金を取り立て、私腹を肥やしていました。しかし、パリサイ人の祈りは、自分を誇り、取税人を蔑む祈りでした。取税人の祈りは、自分の罪を認め、神に罪の赦しを求めるへりくだった祈りでした。神は、高慢なパリサイ人を退け、自分の罪を認めて、神の前にへりくだる取税人を義と認められたのです。
私たち、日本人も、神の計画からすれば、遠く離れた者です。しかし、神は、ユダヤ教の戒めを守ろうとするパリサイ人たちではなく、自分の罪を認めて、神に助けを求める者を救いの恵みに入れてくださるのです。神の律法を守って、神の前に自分の正しさを求める者は、どうしても、自分を誇る者になってしまいます。それを「自己義」と呼びます。しかし、神が私たちに与えて下さる「信仰による義」は自分の罪を認めて、イエスがなしてくださった十字架の贖いによって救われることを信じることです。それは、自分の信仰を誇る者ではなく、神の愛と恵を誇ることです。しかし、同じクリスチャンでも、ある人々は、形だけ、見た目だけ良いクリスチャンになろうと努力する人がいます。「何々しなければならない」または、「何々してはならない」とクリスチャンであるならばこうしなければならないと、こうあるべきだと、正しいクリスチャンになることを強制する人たちで、これを「律法的クリスチャン」と呼びます。そこには喜びはありません。私たちが、礼拝を守り、献金をささげ、教会で色々な奉仕をするのは、正しいクリスチャンになるためではなく、私たちのような罪人のために、ひとり子(イエス・キリスト)を犠牲にされた神の愛ゆえです。また、イエス・キリストは一度も罪を犯さなかったのに、私たちの罪の身代わりとして十字架の上でいのちを犠牲にされました。私たちは、イエスの十字架の贖いによって、はじめて、罪赦された者となり、神と和解し、天の御国に迎えられる者にされたのです。この神の愛の御業のゆえに、私たちは、礼拝を守り、献金をささげ、教会の奉仕に携わるのです。自己義を求める者は、高慢になり、人々を蔑み、人々に不満をもちます。しかし、神の愛ゆえに、奉仕する者の上には、常に、神への感謝とへりくだった信仰が伴うのです。