天からのしるしを求める人々

マルコの福音書8章1節~21節

先週は、イエスに助けを求めに来た異邦人の女性のお話から、神はユダヤ人であっても、自分を誇る高慢な者を退け、この女性のように、異邦人であっても、神の御前に自分を低くする謙遜な者を受け入れて下さることを学びました。

今日は、パリサイ人たちが求めた天からのしるしについて学びます。

1、七つのパンで男性だけで四千人を養った奇蹟(1節~10節)

8月14日の礼拝で、男性だけで五千人以上の人々のお腹を、五つのパンと二匹の魚で満腹させたというイエスの奇蹟から学びました。それは、マルコの福音書6章35節~44節に記されています。それからどれだけの日数が経ったのかわかりませんが、8章において弟子たちは再び、同じような状況に出くわしました。イエスは弟子たちを呼んで言われました。2節3節「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります。遠くから来ている人たちもいます。」イエスの話を聞くのに夢中になって、群衆は食べるのも忘れて、イエスの話に耳を傾けていたのです。イエスのことばを聞いて、弟子たちはどう思ったでしょうか。4節「弟子たちは答えた。『こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることが出来るのでしょうか。』」弟子たちはなぜ、ここで、以前、イエスが五つのパンと二匹の魚で、男性だけで五千人以上の人々を満腹させたできごとを思い出さなかったのでしょうか。イエスは弟子たちに「パンがいくつあるか」尋ねられました。弟子たちは「七つあります」と答えました。イエスは以前のように、七つのパンを祝福して群衆に配られました。群衆は満腹して余ったパンを集めると、七つのかごいっぱいになりました。人々は、およそ四千人であったとあります。また、14節からパン種についての話が始まりますが、イエスは、弟子たちが五つのパンと二匹の奇蹟と七つのパンの奇蹟から悟ることが出来ない頑な心を責められました。弟子たちはこの奇蹟を体験しても、イエスが誰であるか、悟ることが出来なかったのです。

2、天からのしるしを求めるパリサイ人たち(11節~13節)

 11節「すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論をはじめた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。」とあります。彼らがイエスに求めた天からのしるしとは、メシヤ、救い主としての証拠という意味です。イエスは心の中で深くため息をついてこう言われました。12節「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません。」イエスは「どんなしるしも与えられません」と言われましたが、その意味は、「あなたがたが求めるようなしるし」という意味です。イエスは群衆に対して「メシヤとしてのしるし」は何度でも表しておられました。例えば、ツアラアトに人をきよめたり、中風の人をいやしたり、目の見えない人をいやしたり、足の不自由ひとをいやしたり、五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人の人々を満たす奇蹟もそうです。しかし、群衆は、それらをメシヤ救い主のしるしと理解することが出来なかったのです。なぜなら、彼らの求めた天からのしるしは、ローマの軍隊をユダヤから追い出し、ユダヤの国の独立を宣言するダビデのような勇敢なメシヤ、救い主でした。彼らの目からすれば、イエスのなしていることは小さなことに見えたでしょう。イエスの姿は、彼らの求めるメシヤ像とはかけ離れた姿でした。それゆえ、彼らは、イエスの奇蹟を見ても、それをメシヤのしるしとは映らなかったのです。

マタイの福音書11章で、牢獄に入れられた、バプテスマのヨハネが自分の弟子をイエスの所に送り、質問させました。マタイ11章3節「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」バプテスマのヨハネは、イエスが旧約聖書に預言されたメシヤ、救い主であるかを確かめるために、自分の弟子をイエスの所に遣わしたのです。この時点で、バプテスマのヨハネも、イエスが救い主、メシヤであるのか確信が持てなかったので、イエスから直接、イエスが誰であるのか(預言者なのかメシヤなのか)はっきりさせるために自分の弟子をイエスのもとに送ったものと考えられます。そして、イエスはその弟子に言われました。4節5節「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツアラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」イエスは、ここでこのような奇蹟の力があるから、自分はメシヤであると主張しているわけではありません。イエスのことばは旧約聖書イザヤ書35章5節6節を引用されたことばです。イエスは、自分こそ旧約聖書に預言されたメシヤであると証言されたのです。また、イザヤが53章でメシヤは「苦難のしもべ」の姿で現れることを預言しました。その姿は、人々に蔑まれ、苦しまれ、自分のいのちをささげるしもべの姿でした。ユダヤ人たちが求めた姿とは、大きな違いです。また、イエス・キリストはその預言の通り、十字架でご自分のいのちをささげられました。十字架の死と復活もメシヤのしるしでしたが、ユダヤ人たちはそれを認めることが出来ませんでした。それは、今の私たちも同じことです。二千年前に十字架に付けられて犯罪人として処刑された人が、どうして救い主、メシヤであるでしょうか。ここに人間の知恵の限界があります。イエスは十字架に付けられ殺されて終わりではなく、死より三日目に復活されたとあります。一度死んだ人間が、再び生き返るなど信じることができるでしょうか。しかし、聖書は、イエスが神の子であると主張しています。イエスが私たちと同じ人間なら復活はありえません。しかし、イエスが神の子なら、死から復活することも可能なことです。大切なことは、イエスが誰であるかということです。イエスが、ユダヤ人が求めるようなダビデ王のような救い主であるならば、死よりの復活はありません。しかし、聖書が主張するように神の子であるならどうでしょうか。人間にはできないことでも神にできないことはありません。イエスは数々の奇蹟を通してご自分が神の子であることを証明してこられました。ただ、それを信じるためには、人間の力を超えた神の力が必要です。私たちは神の力を得て、はじめて、イエスを神の子と告白することが出来るのです。