イエスに敵対するサドカイ派パリサイ派、ヘロデ党

マルコの福音書12章12節~27節

 

イエスが宣教の働きを始めた時代、ユダヤの国では、三つグループが政治の力を持っていました。(1)サドカイ派、彼らは祭司や貴族など裕福な人たちのグループで、政治的にはローマ政府を支持する立場の人々です。(2)パリサイ派、彼らは、会堂で人々に律法(旧約聖書)を教える人々で、律法学者、律法の教師と呼ばれ、民衆から尊敬されていました。政治的には反ローマの立場です。(3)ヘロデ党、ヘロデ王を支持するグループで、政治的にはローマ政府を支持する立場です。また、ユダヤの国はローマ政府より自治権が与えられ、サンヘドリンと呼ばれる議会で国の運営が行われていました。その議会はパリサイ派の議員とサドカイ派の議員で構成されていました。

1、カエサル(ローマ政府)に納める税金について(13節~17節)

イエスの人気が高まると、パリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党の人々は、イエスに脅威を感じ、イエスを失脚させようと協力するようになりました。初めに、パリサイ派とヘロデ党の人々が協力しイエスに質問しました。14節「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているのでしょうか、いないのでしょうか。納めるべきでしょうか、納めないべきでしょうか。」この質問はイエスを罠にかけるための質問で、イエスがカエサルに税金を納めるべきではないと言えば、ヘロデ党の者たちがイエスをローマ政府に反逆する者として訴えることができます。また、納めるべきであるといえば、民衆の支持を失うことになります。民衆はカエサル(ローマ政府)に税金を払うことを嫌がっていたからです。どちらを答えてもイエスの人気をおとしめるための質問でした。そこでイエスはデナリ銀貨を持ってこさせ、言いました。16節「これは、だれの肖像と銘ですか」彼らは「カエサルのです」と言いました。そしてイエスは17節「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言われました。イエスの答えは、神はすべてを治める支配者なので、カエサルの支配もまた、神の支配下にあることを認め、カエサルに納める税金はカエサルの肖像が刻まれた銀貨で納め、ユダヤ人として直接、神に納める税金はユダヤのお金で納めなさいと言われたのです。彼らはイエスの答えに驚嘆したとあります。

2、復活について(18節~27節)

次に、サドカイ人たちがイエスに質問しました。彼らの宗教的立場は復活を信じていませんでした。それゆえ、彼らはイエスに対して復活がいかに現実的ではないことを証明するために、このような質問をしたのです。19節~23節「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」兄が子を残さずに死んだ場合、弟が兄嫁を妻にして子孫を起こさせることは、モーセが書いた律法に記された戒めです。(申命記25章5節)モーセは親族を絶やさないためと、兄弟がやもめとなった女性の生活を守るために定められた戒めです。しかし、サドカイ人たちはこの戒めを用いて復活を信じる人々への反論として用いていたのです。イエスはそれに対して二つのことを例に出して彼らに反論しました。(1)復活後の生活は、この世の制度をそのまま持ち込むことはない。復活の際は新しい生活が始まる。結婚という制度は復活した世界にはなく、天使のように嫁いだりめとったりはしない。(2)モーセに対する神のことば26節27節「死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」神はモーセに対してご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われました。もし、アブラハムやイサクがすでに死んでなくなっているのであれば「わたしはアブラハムの神だった、イサクの神だった、ヤコブの神だった」と過去形で表現したはずです。しかし、神はモーセに現在形で、生きている者として「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われたのです。それは、アブラハムやイサクやヤコブが神の前で死んだ者ではなく、生きている者として受け取られているからです。私たちは死んで無くなるわけではありません。私たちの魂は神の許に引き上げられます。そして、再臨の時、すべての者が神の前に立たされ、神の御前で裁きが行われます。罪ある者はその罪のゆえに神の裁きを受け、イエスによって罪赦された者は神と共に永遠に天の御国で暮らすことができます。それゆえ、私たちは死んで終わりではなく、神の前では生きた者として受け止められているということです。

私たちは何を根拠にイエスの復活を信じているでしょうか。私は、二つの出来事を通してイエスの復活を信じています。(1)十字架で殺されたイエスの体をお墓に納めた後、そのイエスの体が三日目に無くなったという事実です。祭司長たち、パリサイ人たちは、ピラトに申し出て、イエスの体が盗まれないように、番兵たちを出し石に封印をしたとあります。しかし、イエスは三日目に復活され、お墓にあったイエスの体が消えてしまいました。このイエスの体が消えてしまったことは事実です。それゆえ番兵たちは慌てて、このことを祭司長たちに告げに行ったのです。すると、彼らは、「弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んでいった。」と言い広めるように命じたのです。イエスが捕まった時、弟子たちはイエスを一人置いて逃げて行ったとあります。また、イエスが殺された後も、弟子たちは人々を恐れて家の中に隠れていました。どう考えても、弟子たちがイエスの体を盗むことは不可能なことです。考えられることは、聖書に書かれているように、イエスの体は復活して、墓から消えてしまったということ。それゆえ、祭司長たちはイエスの復活を隠すために、番兵たちに嘘のうわさを流させる必要があったのです。(2)パウロの回心です。パウロは初めキリスト教を迫害する人でした。彼は、弟子たちをとらえ牢獄に入れていました。そのパウロがダマスコにいるイエスの弟子たちを捕まえるために出かけました。しかし、その途中でパウロは復活したイエスに出会ったのです。彼は今まで弟子たちが人々に伝えていたイエスの復活を信じていませんでした。それゆえ、キリスト教が間違った教えと信じてキリスト教を迫害したのです。ところが、パウロはダマスコに行く途中で実際に復活したイエスに出会ってしまったのです。そこでパウロは自分の間違いに気付き、自分の罪を悔い改めクリスチャンとなったのです。もし、パウロが自分の体験を告白したように、復活したイエス・キリストと出会っていなかったとしたら、彼はどのようにしてキリスト者となることができたでしょうか。彼は信念をもってキリスト教が間違った教えであることを信じて、キリスト教を迫害したのです。考えられることは一つしかありません。パウロが自ら告白しているように、彼が復活されたイエスに出会ったからです。これがイエスの復活を信じる根拠です。また、イエスの復活は、私たちの復活の証明でもあります。イエスの復活を信じるのは、人間の知恵ではなく、神の力が必要です。私たちは聖書の知識と神様の働きによって、実際にイエス・キリストが死より三日目に復活したこと、また、その後、天の父のもとに昇って行かれたことを信じているのです。