イエスの復活を信じる信仰

ヨハネの福音書3章1節~10節

イースターは、イエス・キリストが十字架に付けられ殺された後、三日目に復活して天の父のもとへ昇って行かれたことを記念するお祭りです。私は25歳の時に誘われて教会に通うようになりました。しばらくして、自分も洗礼を受けてクリスチャンになりたいと思いましたが、聖書の中で、イエス・キリストが処女のマリヤから生まれたことと、イエスが死んで三日目によみがえったことを信じることができずに、洗礼を受けることを躊躇しました。多くの方が処女降誕と復活を信じることができずに、つまずく人が多いのではないかとおもいます。では、私たちはどうすれば、イエス・キリストの処女降誕と復活を信じることができるのでしょうか。私の例を挙げると、私は処女降誕と復活を理解しようと努力しました。しかし、何度、聖書を読んでもイエスの処女降誕と復活を理解することはできませんでした。当時、私は、理解できないことを信じることはできませんでした。物事を理解したうえで信じると言うのが今までの私の生き方でした。それゆえ、何とかしてイエスの処女降誕と復活を理解しようとしましたが、理解できませんでした。ある時、クリスチャンの友人のAさんにそのことを相談しました。そると彼は、「わたしも理解していないよ。」と言われました。私はびっくりして「処女降誕と復活を理解していないのに信じているのですか。」と言いました。彼は、理解することと信じることの違いを説明してくれました。私たちは神に造られた者で、造られた者が創り主である神を理解することはできない、しかし、私たちクリスチャンは真の神がおられ、聖書が神のことばであることを信じている。それゆえ、聖書に書かれてある処女降誕と復活を信じていると説明してくれました。そして、牧師先生にも毎日聖書を読みお祈りすることを勧められ、実行しました。すると、目からうろこが落ちるように、イエス・キリストは神の子であるとの確信が生まれました。今まで、イエス・キリストを人間のレベルで理解しようとしましたが、イエス・キリストが神の子であると信じたとき、すべてがすっきりとしました(迷いがなくなりました)イエス・キリストは神の子だから処女マリヤから生まれ、死より復活することができた。処女から生まれる方法や死から復活された方法は理解できませんが、イエスが神の子であるなら不可能ではないと信じるに至ったのです。その後、納得して洗礼を受けました。

ヨハネの福音書3章にニコデモと言う人が登場します。1節に「ユダヤ人の議員であった。」とあります。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていましたが、特別に自治権が与えられ、ユダヤ人から選ばれた議員によって議会(サンヘドリン)が認められていました。

また彼は「パリサイ人の一人で」とあります。先ほどの議会はパリサイ派とサドカイ派の二つのグループで構成されていました。パリサイ派は人々に旧約聖書を教え守るように指導する人々で、律法学者と及ばれ民衆の支持を得ていました。サドカイ派は祭司階級によって構成されローマ政府より恩恵を受けていました。ニコデモは、パリサイ派の指導者として、地位と教養が高くお金持ちで、人々より尊敬されていました。当時のイエス・キリストは民衆の支持を受けていましたが、お金持ちや知識階級の人々、ユダヤ教の指導者からは支持されませんでした。それゆえ、ニコデモは人目を避けて夜イエスを訪問したのです。2節「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたのなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」ニコデモはイエスが多くの病人を治すのを見て、イエスが神から遣わされていることを認めていました。他のユダヤ人指導者たちは、イエスが悪霊の力で悪霊を追い出していると理解していました。それに比べると同じ指導者でも、ニコデモは彼らとは大きな違いがありました。イエスは彼に答えられました。3節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」「神の国を見る」とは、神の国(天国)に入ることを意味していて、当時のユダヤ教指導者たちの間で議論されていたテーマです。イエスはニコデモが自分を訪問した目的が天の御国についてであることを知って、彼が言い出す前に、その答えを先に言われたのです。ニコデモはそれを聞いてびっくりしました。ニコデモはイエスに言いました。4節「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか。」ニコデモはイエスのことば、「新しく生まれる」ということを、「母の胎から新しく生まれ直さなければ」と考えました。それゆえ「そんなことができるでしょうか」と答えたのです。イエスは彼に言われました。5節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」ここでイエスが言われた「水と御霊」とは、「水」は「洗礼」を表し。「御霊」は「聖霊」を表しています。また、私たちは洗礼を受ける時、自分の罪を認めて悔い改めた後、洗礼を受けます。そういう意味では、私たちが自分の罪を認め悔い改めた後、神の助けによって新しく生まれるという意味です。また、イエスはこのようにも言われました。6節「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」たとえ、母の胎に入って生まれ直したとしても、人の努力では新しく生まれることはできません。私たちが新しく生まれるためには、聖霊の力(助け)がなければ、だれも新しく生まれることはできないのです。7節8節「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」私たちは風を目で見ることはできませんが、体に風が触れたり、木が揺れるのを見て、風が吹いているのを知ることはできます。しかし、風がどのように生まれ、どのように吹いていくのかを知ることはできません。それと同じように霊についても私たちは知ることはできません。ニコデモはイエスに答えました9節「どうして、そのようなことがあり得るでしょう。」この言葉の後、ニコデモの姿は現れません。はたして、彼はイエスのことを理解できたのでしょうか。この時点で彼は、イエス・キリストを神の子と信じることはできませんでした。しかし、ニコデモはヨハネの福音書19章の39節に再び登場します。この時イエス・キリストは十字架に付けられ殺されていました。アリマタヤのヨセフはピラトにイエスの体の下げ私を求めに来ました。39節「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。」とあります。先週もお話しましたが、十字架に付けられて殺された者は呪われた者とされ、人々から忌み嫌われました。また、イエスの体を受け取ると言うことは、自分はイエスの弟子であることを公に現わす行為です。アリマタヤのヨセフもニコデモもユダヤ人議会の議員として高い地位の人でした。イエスの弟子であることが分かれば、その地位を失うかもしれません。それでも、二人は勇気をもってイエスの体を受け取り墓に埋葬したのです。この姿を通してアリマタヤのヨセフとニコデモは、この時すでにイエスの弟子となっていたと言えます。

人間の知恵ではイエス・キリストを神の子と信じることはできません。イエスを神の子と信じるのは神の力です。それゆえ、まず、私たちが神を理解しようとすることを放棄し、神によってイエス・キリストを神の子と信じる力が与えられることを求めることです。そのために自分の罪を認めなければなりません。病気をしたら医者の所に行き治してもらうように、自分の罪を認めたら、その解決を求めるはずです。罪を持ったままでは天国に入ることはできません。それゆえ、人には罪の赦しが必要です。イエス・キリストは人として生まれ、十字架でいのちを犠牲にしてくださいました。イエス・キリストの十字架の死と復活が、私たちの唯一の罪の問題の解決です。私たちは生きている間に罪の赦しを受け取らなければならないのです。