イエスの本当の御姿

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マルコの福音書9章1節~29節
イエスは弟子たちに「人々はわたしをだれだと言っていますか。」尋ねられました。弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」と答えました。次にイエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれと言いますか。」と尋ねられました。そこで、ペテロが「あなたはキリストです。」と答えました。しかし、それは彼自身から出た信仰告白ではなく、天の父(神)によって語られたことであると、イエスは彼らに指摘されました。そういう意味では、群衆も弟子たちもイエスのことを旧約聖書の時代に活躍した預言者の一人、または、偉大な預言者エリヤのような方だと理解していたと言うことです。この事を頭において今日のお話を聞いていただきたいと思います。
1、神の国について(1節)
1節でイエスは群衆にこのように言われました。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって来るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」イエスはここで私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。イエスが言われた「神の国」が「天の御国」であるとするなら、まだ。「天の御国」は来ていないのに、その時代の人々はみんな死んでしまっています。では、イエスが言われた「神の国」とは何を指しているのでしょうか。イエスが宣教の初めに群衆に語られた言葉は、マルコの福音書1章15節「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉でした。旧約の時代は、神の国を待ち望む時代でした。そして、イエスが生まれ、イエスが30歳の時に福音宣教の働きを始められました。イエスが言われた「時が満ち、神の国が近づいた」という意味は、イエスが誕生し、福音を宣べ伝えることによって、救いが身近になったと言う意味ではないでしょうか。イエスが生まれるまで、ユダヤ人には救いの約束が与えられませんでした。それゆえ、彼らは、律法を守ることによって救いを得ようとしました。神が私たちのために備えてくださった救いは、イエスの十字架の死と復活によって完成されました。その後、教会が誕生し、多くの人々が救いの恵みを受けました。ここでイエスが言われた「神の国が力をもって到来する」という意味は、教会の働きを意味したものではないでしょうか。それならば、パウロを含め、ほかの弟子たちもその時には存在していました。
2、イエスとエリヤとモーセ(2節~13節)
イエスが弟子のペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られると、彼らの目の前で、イエスの御姿が変わりました。3節「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」とあります。それは、人間の手ではなしえないほどの白さで輝くイエスの姿でした。4節「また、エリヤとモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。」とあります。ペテロはこの光景に驚き、イエスに言いました。5節「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」6節「ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。」とあります。「幕屋」とは、荒野で神がモーセを通して作らせた、神を礼拝する聖なる移動式の建物のことです。ペテロは目の前の光景に驚き、三つの幕屋を立てますと言い出したのです。するとそのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がしました。7節「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」ペテロは、目の前の状況に驚き、モーセとエリヤとイエスのために三つの幕屋を造りましょうと言いました。明らかに、ペテロにとってイエスはモーセとエリヤと同等のお方(偉大な預言者)でした。しかし、神はペテロの間違いを指摘し、イエスの教え、イエスの言うことを聞くように言われたのです。群衆もイエスの弟子たちも、イエスを偉大な預言者と信じていました。しかし、神は、イエスこそ、神の子であり、唯一、私たちが神の子と信じて、従うお方であることをこの場面で弟子たちに教えられたのです。
9節「さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよいがえる時までは、今見たことを誰に話してはならないと命じられたと。」あります。弟子たちによって間違ったイメージを人々に与えないために、誰にも言わないようにイエスが弟子たちに命じられたものと思われます。また、これを受けて、死人の中からよみがえられると言われた意味について弟子たちは互いに論じ合ったとあります。そこで、弟子たちはイエスに質問しました。11節「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだといっているのですか。」イエスは彼らに言われました。12節「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。」13節「わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書いているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」律法学者たちは、旧約聖書を通して、救い主の前にエリヤのような預言者が現れることを信じていました。しかし、神はその主の前に遣わされる預言者としてバプテスマのヨハネを遣わしましたが、律法学者たちは、バプテスマのヨハネをエリヤのような預言者と認めませんでした。そして彼は、ヘロデ王によって牢獄に捕らえられ、首を切られ殺されてしまったのです。
3、口をきけなくする霊を追い出されるイエス(14節~29節)
イエスたちが山から下りてくると、他の弟子たちは律法学者たちと議論をしていました。イエスは彼らに言われました。16節「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか。」すると一人の人がイエスに言いました。17節18節「先生。口をきけなくする霊にとりつかれた私の息子を、あなたのところに連れてきました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」イエスがいつからこのような状態なのかを彼に尋ねると21節22節「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」と答えました。イエスは彼に言われました。23節「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父親は叫んで言いました。24節「信じます。不信仰な私をお助けください。」イエスは汚れた霊を叱って言われました。25節「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出ていけ。二度とこの子に入るな。」
すると霊は叫び声をあげてその子を激しく引きつけさせて出て行ったとあります。弟子たちはイエスに尋ねました。28節「私たちが霊を追い出さなかったのは、なぜですか。」イエスは言われました。29節「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことはできません。」この出来事から二つのことを学びます。以前、イエスが郷里に行かれた時、彼らの不信仰のゆえにイエスが力ある業をすることが出来なかったとありました。彼らはイエスを子どものころから知っていました。それゆえ、イエスを神の子、イエスの権威を信じることが出来ずに、イエスは力を出すことができなかったのです。この父親も、子どものために多くの医者や祈祷師の所に息子を連れて行ったことでしょう。しかし、だれも息子を助けることが出来ませんでした。それゆえ、イエスの前に息子を連れて来ても、「おできになるなら」という言葉が出てしまったのです。そこで、イエスは彼の信仰を強めるために「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と彼を励まし、神の御業を信じるように促したのです。もう一つは、なぜ弟子たちはこの霊を追い出せなかったのかということ。以前、弟子たちはイエスによって悪霊を追い出す権威が与えられ、実際に多くの悪霊を追い出したという報告をイエスに喜んでしています。なのに、なぜ、今回は追い出せなかったのでしょうか。イエスは「祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」と言われました。弟子たちは、確かにイエスによって悪霊を追い出す権威は与えられていましたが、その力は自分の内にあるのではありません。弟子たちが自分たちの力を過信して、自分たちの力で悪霊を追い出そうとしても、それは、無意味な行為でした。私たちは神より色々な賜物が与えられていますが、神に祈ることなしに、賜物を用いることはできません。祈りとは、神に委ねることであり、神により頼むことです。それを忘れ、イエスの権威を振りかざしても何も起こらないのは当たり前のことです。私たちは、神を信じていても、周りの状況を見て、いくら神でも無理ではと、不信仰な思いを持ちがちです。また、自分の力を過信して、神に頼らないで、自分の力で問題を解決しようとして失敗をするものです。もう一度、イエスは誰であるのか。また、その権威はどこから来ているのかを考えたいと思います。