マルコの福音書3章20節~35節
今日のマルコの福音書3章20節から35節を、「イエスとベルゼブル」「イエスと神の家族」の二つに分けて学びます。
1、イエスと悪霊の頭ベルゼブル(マルコの福音書3章20節~30節)
イエス・キリストが悪霊を追い出し、病をいやしていることが、ユダヤだけではなく、周りの国々、ツロやシドンにまで広がるようになりました。ユダヤ教の指導者たちも、このイエスの働きを無視することが出来ず、イエスを捕らえ、罪に定めようと働くようになりました。その働きの一つとして、イエスの悪い噂を流したのも彼らだと考えられます。彼らは、イエスの働きが神による働きであることを否定するために、イエスの働きを悪霊の頭ベルゼブルによるものと呼びました。ベルゼブルとは「家の主」という意味で、イエスが人から悪霊を追い出すのは、神の力ではなく悪霊の頭ベルゼブルの力によるとイエスの働きを悪霊の働きと断定したのです。イエスはそれに対して、一つの例話によって、彼らの考えの間違いを指摘しました。23節~27節「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。もし家が内部で分裂すれば、その家は立ち行きません。もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。」ここで、イエスは二つのことを教えています。もし、律法学者たちが言うように、サタンの頭の力で、サタンを追い出しているとすれば、サタン同士が内輪もめしていることになり、サタンの国が分裂し、サタン自体が滅んでいくことで、そのようなことはありえない。もう一つは、サタンを縛る(追い出す)ためには、サタン以上の強い力が必要であり、それは、神の力しかなく、自分はその神の力により、サタンを縛り、(サタンを追い出し)その人をサタンの縛りから解放しているのだという主張です。次にイエスが言われた言葉は、理解しにくい言葉です。28節29節「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒涜する者は、だれでも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」ここで、イエスが言われた「聖霊を冒涜する者」とは、どのような人のことでしょうか。30節を見ると「このように言われたのは、彼らが『イエスは汚れた霊につかれている』と言っていたからである。」とあるのを見るとイエスの働き、聖霊の働きを悪意を持って、悪霊の働きという者のことで、広い意味で言えば、宣教の働きを邪魔する者のことです。律法学者たちは、故意に、イエスの働きを邪魔し、宣教の働きの妨げになっていました。神の救いの計画を邪魔するような者は、赦されることなく永遠の罪に定められるという意味です。
2、イエス・キリストと神の家族(マルコの福音書3章31節~35節)
イエスの働きは、ユダヤだけではなく、周りの国々、ツロやシドンにまで広がって行きました。しかし、先ほどもお話ししたように、律法学者たちが、イエスが悪霊の頭により悪霊を追い出しているといううわさを流し、イエスがおかしくなったといううわさがイエスの家族にも届くようになります。そこで、イエスの家族たちが心配してイエスを家に連れ帰ろうと、イエスの所に尋ねて来たのです。イエスの家族が来たのを知ると、イエスは群衆にこのように言われました。33節「わたしの母、わたしの兄弟とは誰でしょうか。」34節35節「そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。』」この時、イエスの母と兄弟たちは、イエスの悪い噂を聞いて、イエスを連れ戻しに来たのです。この時点で、イエスの母マリアも兄弟たちも、イエスが神の子であることを理解できませんでした。イエスの悪い噂を信じて、イエスの働きをやめさせるために、イエスの所に来たのです。イエスが言われた家族とは、霊的な家族のことで、教会を表しています。教会は、イエスを神の子と信じる者の集まりです。それゆえ、この時のイエスの家族は、イエスを神の子と信じていないので、神の家族の中にはいることができなかったのです。しかし、イエスが十字架に付けられ、殺され、三日目に復活された後、イエスの母マリアもイエスの兄弟たちも、イエスを神の子と信じたので、この神の家族(教会)の中に入ることが出来たのです。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストによって新しいいのちが与えられた者で、新しく生まれ変わった者です。神の家族とは新しいいのちが与えられた者で、新しく生きる者のことです。私たちは自分の力で神の子となることはできません。私たちが、イエスを主(神の子)と信じるのは、聖霊の力が必要です。私たちはどのようにしてクリスチャンになったのでしょうか。確かに、私たちは、礼拝に参加し、聖書の学びをしたかもしれません。それは大切なことですが、私たちは自分の力で、イエスを神の子と信じたのではありません。そこに教会の祈りがあります。私たちは、家族のために、友人のために祈ります。祈りは具体的に何かをすることではありません。それゆえ、見た目には、何の力もないように見えます。しかし、祈りとは、神にお願いすることであり、神により頼むことです。実は、この祈りほど力強い働きはありません。私たちの力には限界があります。しかし、神の力には限界はありません。神の力はどのような人も変える力があります。パウロは、クリスチャンを迫害した者ですが、復活したイエスと出会って、180度変えられ、イエス・キリストの復活を伝える大きな働き人になりました。祈りには力があります。それを知るのは、本当に、神の力を信じて祈った者だけが知ることが出来る神の恵みです。私が、クリスチャンとなるためにどれだけの多くの人の祈りがささげられたことでしょうか。それゆえ、私たちは、今も、家族や友人が神の家族(教会に属する者)になるために、神に毎日、お祈りをささげるのです。