「イエス・キリストを土台として生きる」ルカの福音書6章46節~49節
ルカの福音書6章20節から49節に記されている内容は、マタイの福音書5章から7章にかけてイエス様が山の上で群衆に語られた山上の説教に似ています。マタイの福音書では、旧約聖書の教えと比較しながら、イエス様の教え(キリスト教)がどのように律法学者たちの教え(ユダヤ教)と違うかをわかりやすく群衆に教えています。ルカの福音書では、マタイの福音書よりもコンパクトにイエス様の教え(考え)をルカがまとめたものと思われます。
(1)20節~23節「貧しい者、飢えている者、泣く者、辱めを受ける者の幸い。」
貧しい者、飢えている者、泣く者、辱めを受ける者はなぜ、幸いなのでしょうか。
それは、貧しい者、飢えている者と神が共にいてくださるからです。
(2)24節~26節「富む者、食べ飽きている者、笑う者、人にほめられる者の不幸。」
逆にイエス様は、この地上で富んでいるもの、食べ飽きている者は哀れだと言われました。なぜなら、その人は神から遠くはなれた者であり、終わりの日に神から裁きを受けるからです。
(3)27節~36節「神に愛される者、神の子に求められる生き方(哀れみ深い者)」
神様に愛されるということ、神の子となることは特別な恵みです。また、それゆえに、神様が私たちに求めることも人間の力では守ることができない難しい教えです。1.敵を愛すること。2.自分を憎む者に善を行うこと。3.自分をのろう者を祝福すること。4.自分を侮辱する者のために祈ること。何と難しいことでしょうか。しかし、これが神様が私たちに求めている神の子の姿なのです。
30節から34節は、罪人たち(一般の人々と比較して)が行っている行為を取り上げ、神に愛される者はそれ以上の善を、神が求められていることをあらわしたものです。(例、自分を愛する者を愛すること。自分に良いことをする者に良いことをする。返してもらうつもりで人に貸すこと。)
(4)37節、38節「人をさばかない、人を罪に定めない、人を赦すこと。」
私たちは、いかに人をさばき、罪に定め、人を赦すことのできない者でしょうか。生まれつきの人間にはできないことです。しかし、神に愛され、神に罪赦された者だけが、人を赦すことができるのです。
(5)41節、42節「自分の目から梁(はり)を取り除きなさい。」
梁(はり)とは家を建てる時に使う木材のことです。私たちは、他人の目の中にあるちり(欠点)はよく見えても、自分の目の中の梁、欠点(いたらなさ)には気づきにくいものです。イエス様は、まず、自分の欠点に気づき、そこから直していくように教えられたのです。
(6)43節~45節「心に満ちているもの」
43節の木の例えと45節の例えとは同じことを伝えています。実は、木の種類によって決まります。りんごの木はりんごの実をつけ、柿の木は柿を成らせます。りんごの木が柿の実を成らすことはありえません。それと同じように、人の行動や言動というものは、心にあることを表すからです。心に怒りがあれば、荒々しいことばが出、暴力をふるいます。また、心が、喜びで満たされているなら、感謝のことばや人に優しく接することができます。問題は、私たちの心の中が何で満たされているかです。
(7)46節~49節「結論、キリストを土台として生きる」
46節の「主よ、主よ」と呼びながらと言う個所は、マタイの福音書ではもう少し詳しく説明しています。マタイの福音書7章21節~23節「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『私はあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」ここで、神様が私たちに望んでおられることがはっきりと記されています。主の名によって、預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行ったとしても、主のことばに従わず、不法を行う者は、神様に退けられるということです。
では、神様が私たちに望んでおられることはなんでしょうか。それは、「キリストを土台として生きること」です。私たちは何を土台として生きているでしょうか。以前は、自分自身や自分の価値観でした。そのようなものを土台としていては、自己中心な生き方しかできません。「目には目で、歯には歯」と言うことばは律法(旧約聖書)の教えです。イエス様は、右の頬を打つ者には左の頬も向けなさいと言われました。これが、神様が神の子に求められる姿です。しかし、実際に私たちはそのようなことができるでしょうか。また、人を赦すこともできない者です。キリストを土台とすると言うことはどういうことでしょうか。先週学んだ、片手のなえた人のお話で、パリサイ人律法学者たちは、安息日は働いてはいけない日なので、他の日に直すべきだと考えました。それは、彼らの土台が律法(旧約聖書)だから出て来た考えです。しかし、イエス様は、この時、神様の御心は何かを考えました。神様の御心は、安息日の戒めを守ることよりも、片手のなえた人をすぐに直すことだと信じたのです。神様の御心は何か、イエス様は第一にそのことを考えたのです。それを「キリストのまなざし」と言います。先程の、敵を愛すること、自分を憎む者に善を行うこと、自分をのろう者を祝福すること、自分を侮辱する者のために祈ること。それは、全て、キリストの思いを通して見るとき、行動することができる行為です。私たちは、自分の目の梁には気がつかずに、他人の目からちりを取り除こうとする者です。キリストの目を通して初めて自分の梁に気がつくのです。難しいことです。自分の力ではできないことです。それゆえ、神様の助けが必要なのです。神様はそのために私たちと共におられるお方です。神様が私たちに与えてくださる祝福は、天国だけではありません。神様が共におられることによって、私たちは、この世で、本当の幸いな人生を歩くことができるのです。