イエス様の十字架の死の前の出来事

「イエス様の十字架の死の前の出来事」ヨハネの福音書12章1節~8節

ヨハネの福音書12章で、イエス様と弟子たちは、エルサレムから3キロメートルほど離れたベタニヤで、らい病人シモンの家で食事のもてなしを受けていました。そこには、死からよみがえらされたラザロもいました。マルタは、イエス様と弟子たちのためにそこで晩餐の準備をしていました。すると突然、マリヤが登場し、非常に高価な、純粋なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛で拭い始めたのです。家の中は香油の香りでいっぱいになったとあります。人々は何が起こったのか不思議に思ったことでしょう。しかし、イエス様の弟子の一人、イスカリオテ・ユダは、5節「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」とマリヤの行動を咎めました。当時、一日の労働賃金が一デナリと言われています。マリヤは、イエス様に三百日分の労働賃金にあたる高価な香油をイエス様の御足に塗り、自分の髪で拭い始めたのです。弟子たちの金お管理を任されていながら、その金を盗んでいたイスカリオテ・ユダには、ただもったいないことのように思えたのでしょう。イエス様はマリヤの行動を好意的に受け入れ、そのままにさせるように言われました。また、イエス様はマリヤの行動を7節「マリヤは私の葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」と言われました。マリヤにとっては、死んだラザロをよみがえらさせていただいた、感謝の気持ちで、自分にできる最高のお返しが、この香油をイエス様の御足に塗って、自分の髪の毛で拭うことはなかったでしょうか。当時、女性は香油を化粧品として用いていました。また、そのほかに、薬品や葬儀の時に死体にも塗ってにおい消しとして用いられていました。マリヤにとって、自分の持っている一番高価な物はこの香油でした。マリヤは自分が持っている最高の香油をイエス様の御足に塗ることで自分の感謝の気持ちを表したのです。しかし、これから十字架の死に向かって歩もうとされていたイエス様には、この香油は、死を前にした埋葬の準備として受け取られたのです。マリヤは、はからずも、イエス様に香油をぬることによって、埋葬の準備となり、死を前にしたイエス様には最高のもてなとなったのです。

翌日、イエス様は大勢の群衆と共にエルサレムに入られました。群衆はしゅろの木の枝を取って出迎えたとあります。しゅろの木の枝を振って出迎えることはユダヤ人にとって特別な意味がありました。かつて、外国に占領されていた時代、ユダヤ人は革命を起こして独立を勝ち取ったことがあります。その時、その指導者を群衆はしゅろの木の枝を振って迎えました。今、群衆はイエス様をあの時の革命の指導者として、また、ローマの支配から助け出す王として、期待してイエス様を迎えたのです。それが、13節「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られた方に。イスラエルの王に。」ということばになってイエス様を歓喜で迎えたのです。

しかし、イエス様は、あえてろばの子に乗ってエルサレムに入られました。それには二つの意味がありました。イエス様がエルサレムに入られるとき、すでにイエス様は死を覚悟されていました。決して、ローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国を独立させるためではありません。イエス様はそのことを群衆に伝えるために、あえて、勇壮な馬ではなく、ちいさなろばの子を選ばれて、エルサレムに入場されたのです。もう一つの意味は、ヨハネが書いているように旧約聖書の預言の成就です。ゼカリヤ書9章9節「みよ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」ゼカリヤはイエス様が生まれる520年前の預言者です。ゼカリヤは救い主がエルサレムに来られる時、馬ではなく、子ろばに乗ってエルサレムに入ることを預言して言われたのです。しかし、群衆はイエス様の考えを理解しようともせず、自分たちの願望をイエス様に押し付け、ローマの支配からユダヤの国を独立させる王としてイエス様をむかえたのです。しかし、しばらくして、イエス様がそのような働きを一切なさらないので、群衆はイエス様に失望し、イエス様から去って行ったのです。

この後、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書は、最後の晩餐の場面へと移って行きます。ところが、ヨハネは、三つの福音書には記されていない、イエス様が弟子たちの足を洗う場面を描いています。ヨハネの福音書は一番最後に書かれた福音書で、ヨハネがこの福音書を書く時、すでに各教会では、三つの福音書はすでに読まれていました。ヨハネはあえて、三つの福音書には書かれていない、大切なことを思い出し、あえて、最後の晩餐の場面ではなく、イエス様が弟子たちの足を洗ったことに注目して、そのことからイエス様の大切なメッセージ、言葉を伝えようとしたのです。イエス様が弟子たちの前にひざをかがめて、弟子たちの足を洗い始めたとき、弟子たちは驚きました。当時、お客様の足を洗うことは、一番下の僕がやる仕事でした。イエス様はあえて、弟子たちに見本を示して、弟子たちの足を洗い始めたのです。そして、最後にこのように言われました。14節15節「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたように、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」人の足を洗うということは、その人の前でへりくだることを表しています。イエス様は弟子たちとの最後の晩に、互いに仕え合うようにと自ら見本を示されたのです。

今日は、イエス様が十字架にかけられて殺される前の場面を、三カ所に分けてお話をしました。(1)マリヤがイエス様の御足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪の毛で拭った場面。(2)多くの群衆がイエス様を、ローマ政府から独立させる救い主として迎えた場面。(3)イエス様が弟子たちの前にひざまずいて弟子たちの足を洗われた場面。どの場面が皆さんの心に一番印象深く残ったでしょうか。各自がその場面に自分の姿を重ねる時、より深くその場面を理解することができます。たとえば、マリヤと自分を重ねて、自分はマリヤのようにイエス様に感謝して一番良い物をささげているだろうかと考える。または、群衆の中に自分を置いて、マリヤが突然イエス様の足に香油を塗る場面を見てどう思うだろうか。イスカリオテ・ユダのようにもったいないと感じるだろうか。など、また、イエス様のエルサレム入場の場面で、自分もイエス様に対して群衆と同じように、自分の願望を優先して押し付けていないかどうか。また、イエス様が、自分の前にひざをかがめて、自分の足を洗い始めたらどう感じるだろうかと、考えてみてください。一人一人考える場面は違い、受け取る印象は違うでしょう。しかし、その場面を過去の遠い自分とは関係ない出来事と考えるならば、私たちはそこから何も得ることは出来ません。自分ならどうするだろうか、自分ならどう受け止めるだろうかと考えることによって、聖書のメッセージを自分に対する神様のことばとして受け取ることができるのです。