神の栄光と十字架の死

「神の栄光と十字架の死」ヨハネの福音書11章1節~6節

今年のイースターは4月1日です。これから、少しづつイエス様の歩みを通して、何故、神の子であるイエス様が十字架に付けられ、殺されなければならなかったのかを見ていきたいと思います。

私たちは、旧約聖書と新約聖書を一つの書物、神のことばと信じています。それは、旧約聖書の中に新約聖書についての預言があり、新約聖書は旧約聖書の預言の成就だからです。また、聖書は一つの方向を目指して書かれています。そのゴールがイエス様の再臨と新しい御国の誕生です。創世記の1章に神の創造が完全であったことが記されています。人間はこの地上を管理する者として神によって創造されました。その秩序を破壊したのがアダムとエバの罪でした。そして、二人はエデンの園から追い出されました。しかし、神様はこの時すでに、この問題を解決するために、ひとり子イエス様の死によって、破壊された秩序を回復する道を選ばれたのです。そのことが、創世記3章15節に記されています。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これは神様の最初の預言のことばで、「女の子孫」はイエス・キリストを指しています。また、「おまえは、彼のかかとにかみつく。」とは、サタンがイエス・キリストを十字架に付けて殺すことを指しています。そして、「彼は、おまえの頭を踏み砕き」とは、イエス・キリストが死より復活することによって、サタンの計画を踏み砕くことを預言されたことばなのです。そして、神様はこの計画を実行されるために長い時間をかけて準備されました。そして、マリヤとヨセフの夫婦を通してイエス様を誕生させ、具体的に神の救いの計画が始められたのです。

最初にお読みしました聖書の個所は、死んだラザロをイエス様が生き返らせた有名な個所です。最初に登場するマルタとマリヤまたラザロとイエス様は以前から親しい関係にありました。この時、ラザロが病のために死にかけていました。マルタとマリヤは今まで、イエス様が多くの人々の病をいやすのを見てきました。そこで、マルタとマリヤはイエス様にラザロのことを知らせて、ラザロの病をいやしてもらおうと考えたのです。ところが、イエス様はその知らせを聞いて、すぐにはラザロのもとに向かいませんでした。それどころか、その知らせを聞いて、なお二日その場所に留まられたとあります。普通ならば考えられないことです。イエス様は弟子たちに言われました。4節「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエス様はこの時、すでに、死んだラザロを生き返らせることを考えていました。また、そのことによってご自分の死が近づかれたのを感じられたのです。ここでイエス様が言われた「神の栄光」という言葉には二つの意味が含まれています。一つは、旧約聖書において、死人を生き返らせた預言者はエリヤとエリシャだけです。イエス様はラザロを生き返らせることによってご自分がエリヤ、エリシャと同じ権威が神様から与えられていることを示し、ご自分が神様から遣わされた救い主であることを証明し、神が栄光を現されたという意味。もう一つの意味は、ラザロを死より生き返らせることによってイエス様の人気は最高点に達し、人々はイエス様を救い主に祭り上げようとしました。しかし、それを見た、祭司や律法学者たちはイエス様に対して危機感を感じ、イエス・キリストを殺さなければならないと決心させたのです。イエス様がラザロを死より生き返らせることのよって、イエス様の十字架への歩みが一歩踏み出される結果となったのです。

サタンの計画は、イエス様を殺すことだけではありませんでした。イエス様を殺すと共にその教え自体も葬る計画でした。当時、十字架刑は、人殺しや盗賊、政治犯に下される重い刑罰です。十字架で殺された者は呪われた者とされ、その家族も呪われた家族として、人々からさげすまれました。そこで、サタンはイエス様を十字架に付けて殺すことによってイエス様を呪われた者として葬り、その教えさえ呪われた者の教えとして、この世からイエス様の教えを葬ろうとしたのです。サタンの計画は99%成功しました。弟子たちはイエス様を裏切り逃げて行きました。人々はイエス様をあざけり、十字架に付けて殺してしまったのです。しかし、神様の計画はサタンの計画の上を行っていました。神様はイエス様を死より三日目に甦らせることによって、預言通り、サタンの計画を踏み砕いたのです。復活されたイエス様は、弟子たちにその体を示した後、天に昇って行かれました。神様はイエス様が復活されたことの物的証拠を残されませんでした。しかし、イエス様が本当に復活されなかったのであれば、サタンの勝利となり、サタンの計画通り、イエス様の教えもなくなっていたことでしょう。弟子たちは復活したイエス様と出会ったからこそ、大胆に外に出て行ってイエス様の復活を宣べ伝え、その教えが世界中に広まったのです。

あの時、アダムとエバがサタンに誘惑されて罪を犯さなければ、世界は違った物になっていたかもしれません。しかし、神は罪を犯したアダムとエバを殺すことなく、罪の問題を解決するために長い時間をかけて準備をされ、ご自分のひとり子イエス様を十字架に付けて殺すことによって人間の罪の問題を解決されました。本来、私たちは自分の罪は、自分で解決しなければなりません。しかし、私たちの罪は大きすぎて、自分の力ではこの問題を解決できない者となってしまいました。そこで、神は私たちを憐れんで、神ご自身の方法で私たちの救いの道を備えられたのです。また、その道は誰でも自動的に入れる道ではなく、神は私たちに悔い改めのチャンスを与えられました。イエス様は狭い門から入りなさいと言われました。その救いの道の門から入る者は自分の罪を認めて、悔い改めなければ入ることができない門です。神は私たちの前に救いの道、救いの門を備えてくださいましたが、その道を歩むかどうかは私たちに選択するチャンスを与えられたのです。イエス・キリストを信じて天の御国に入るか、自分の正しさを信じて天国へ入る道を選ぶのか。しかし、聖書は誰も自分の正しさで天の御国に入ることは出来ないと教えています。全ての人は、終わりの時、神様の前に立たされると聖書に記されています。その時、私たちは罪赦された者として神の前に立つのか、罪人として立つのか大きな違いです。十字架の死は呪われた者のしるしでした。しかし、イエス様はご自分が死より復活されることによってあの忌まわしい十字架の呪いを、神様の愛のしるしへと変えられたのです。これこそまさに神様の栄光のしるしなのです。