ガリラヤでの主の働き

「ガリラヤでの主の働き」 ルカの福音書5章1節~11節

悪魔の誘惑に勝利されたイエス様は、郷里のナザレを中心にガリラヤ地方で宣教の働きを始められました。ルカの福音書4章16節から、イエス様の宣教の働きとその影響について書かれてあります。イエス様の時代、ユダヤ教の中心は会堂での礼拝でした。ユダヤ人は安息日に会堂に集まり、聖書を学び礼拝をささげていたのです。礼拝の中心は聖書のことばを聞く、説教でした。専門に聖書を教える巡回教師がおり、会堂では律法の教師による説教と学びが行われていました。すでにこのとき、イエス様の名もガリラヤ地方では有名になっていました。そして、ご自分の郷里で礼拝に出席されたとき、説教者として、お話しをする時、イザヤ書が書かれた巻物を手渡されて、イザヤ書61章の御ことばを朗読して、「きょう。聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と宣言されたのです。それは、ご自分が旧約聖書で預言されたメシヤ(救い主)であることの宣言で、郷里の人々はイエス様のことばに驚いたのです。イエス様の宣言を聞いた人々の反応は、ある人は救い主の登場に喜びましたが、多くの人々がイエス様の人としての姿を知っていたがためにつまずき、イエス様を救い主とは信じませんでした。そして、イエス様が旧約聖書のエリヤとエリシャの話を取り上げ、ユダヤ人の不信仰のために、恵みが異邦人(シリヤ人ナーマン、シドン人サレプタの女性)に与えられた話をされると、町の人々はイエス様を捕えがけから突き落とそうとしたのです。31節からは、イエス様が悪霊につかれた人から悪霊を追い出したお話しが記されています。すでに、イエス様は悪魔に勝利されていました。また、そのことはすでに、悪霊たちはも知っていました。それゆえ、悪霊たちはイエス様の権威を恐れ、イエス様のことばに従って悪霊につかれた人の体から出て行ったのです。人々は、それを見て、イエス様の権威に驚きました。また、そのうわさは、ガリラヤ地方全土に広がったのです。

38節から、シモン(ペテロ)の家で、ペテロのしゅうとめの病をいやされたお話しがしるされています。ペテロの家は、ガリラヤの漁師で大きな家に住んでいました。また、ペテロは兄弟アンデレと共に、イエス様と面識がありました。その関係で、イエス様がペテロの家に滞在したものと思われます。しかし、その時には、ペテロはイエス様の弟子ではありませんでした。イエス様はペテロを自分の弟子に加えるために、ペテロの家を訪問したものと思われます。ルカの福音書5章1節を見ると、「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき」とあります。イエス様がペテロの家にこられた時、多くの群衆がイエス様のお話しを聞くために集まってきました。しかし、ペテロはこのとき何をしていたのでしょうか。2節を見ると「漁師たちは、船から降りて網を洗っていた。」とあります。ガリラヤ湖の漁は夜に出かけ網で魚を取る漁をしていました。この日も、ペテロたちは夜遅くから出かけましたが、全く魚が取れず、漁師たちは失望して網を洗っていたのです。そのペテロにイエス様は言いました。4節「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」ペテロはイエス様に答えました。5節「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう。」ペテロはガリラヤの湖の事は良く知っていました。この時間いくらがんばっても魚を取ることはできないことを。しかし、ペテロはイエス様のことばに従って網をおろしたのです。すると、たくさんの魚が捕れて、網が破れるほどになりました。ペテロは驚きました。何故、こんなことが起こったのか、ペテロは理解できませんでした。しかし、その原因がイエス様の権威にあることを知ったペテロは、イエス様の足元にひれ伏して言いました。8節「主よ。私のような者からは離れてください。私は、罪深い人間ですから。」ペテロはイエス様に、神と同じ権威があることを認めて、イエス様の前にひれ伏し、自分のような罪深い者から離れてくださいと願い出たのです。イエス様はペテロに言いました。10節「こわがらなくてもよい。これから後、あなたがたは人間をとるようになるのです。」ヨハネの福音書1章でのイエス様との出会いのとき、ペテロはまだ、イエス様を神(神の子)と認めてはいませんでした。ペテロは、依然として、ガリラヤ湖での漁師の仕事を続けていたのです。イエス様は、ご自分の弟子にペテロを必要とされました。それゆえ、ペテロの住む家を尋ねられたのです。ペテロにとって、神様の働きより、仕事の方が大事でした。ペテロは、神様との関係よりも仕事を選んだのです。しかし、イエス様のほうがペテロに近づいて来られました。そして、ペテロの仕事を通して奇蹟を行うことによって、ご自分に従うことがどんな仕事よりも大切なことであることを教えられたのです。ペテロはこの奇蹟を通してイエス様がただの人でないこと、また、自分の罪深さを認めて、自分から離れてくださるようにイエス様にお願いしたのです。

アライアンス教団を創設したABシンプソン博士は、幾つかの信仰の歌を自ら作りました。その一つに「沖へいでよ」(聖歌597番)があります。シンプソンはこの歌で、神様の恵み深さを海の大きさ、深さにたとえました。確かに、この歌のように、岸からいくら海を見つめても、海の大きさ深さを理解することはできません。実際に沖に出てみなければわからないのです。神様を信じることも同じです。いくら頭の中で考えても神様のすばらしさを理解することはできません。しかし、神様を信じて一歩神様に近づくなら、そこから私たちの人生は変るのです。ペテロは、以前にイエス様との出会いがありました。しかし、その時は、イエス様を神の子と信じることができませんでした。そんなペテロにイエス様が近づいてこられ、「舟を沖に出せ」と命じられたのです。ペテロにとってそれは愚かなことでした。なぜなら、彼らは夜通し働いたのに一匹も魚を捕ることができなかったからです。イエス様が言われたこんな時間に魚など捕れるわけがない、これが、ペテロの気持ちでした。しかし、ペテロはイエス様のことばに従ったのです。その時、奇蹟が起こりました。魚が大量に捕れたのです。そのことは、ペテロの常識では考えられないことでした。これは、イエス様の権威、力以外には考えられませんでした。そこで、ペテロはイエス様の足元にひれ伏したのです。神様を信じるとは、世の常識や一般の考えからすれば愚かなことかもしれません。私たちの心がいつもこの常識に支配されていたら、神様を信じることはできません。神様を信じることは、それを乗り越えた世界にあることだからです。また、神を信じない人から見れば、私たちの考えや生活は愚かに見えるでしょう。しかし、その愚かに見える生活の中に神様の恵みはあるのです。私は、25歳で洗礼を受けて今年で29年になります。今まで、クリスチャンになったことを後悔したことはありません。今まで、困難なことや苦しいこと、悲しいこともありましたが、いつも、神様によって助けられてきました。こんなすばらしい宝物を一人でも多くの方にお伝えしたいと思っていますが、なかなか、この神様の恵みを十分につたえることができません。私たちにできることは、イエス・キリストのすばらしさを伝えるだけです。神様を信じる信じないはその人の決断にかかっています。沖へ漕ぎ出すか、岸から眺めるだけなのか。それは、私たち一人一人が決断しなければならないのです。