創世記23章1節~20節
今日はサラの死とアブラハムの死から学びます。以前、牧会カウンセリングを受講していた時「ストレス」について学びました。ある学者がストレスを数値で表し、どのような出来事が人に一番のストレスを感じるかを研究しました。一番のストレスは配偶者の死でした。配偶者の死のストレス値を100とし、離婚が73、配偶者との別居が65、服役期間が63、親密な家族メンバーの死が63となって表されました。勿論、それには個人差がありますが、配偶者の死がどれほど私たちに大きなストレスを与える出来事かが分かります。
1、サラの死(創世記23章)
創世記23章1節「サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。」とあります。この時アブラハムは百三十七歳でした。2節を見るとアブラハムはサラのために悼み悲しみ泣いたとあります。アブラハムはサラを愛していました。アブラハムはエジプトの女奴隷ハガルを妻として受け入れ、イシュマエルを得ました。しかしそれも、サラ自身がアブラハムに申し出たことであり、子のいない二人にとって子を得るためにハガルを妻にしただけです。アブラハムは生涯サラ一人を愛しました。その愛する妻サラを失ってアブラハムはどれほど大きな悲しみに包まれたことでしょう。
これまでアブラハムはカナンの地で一坪の土地も購入しませんでした。お金がなかったわけではありません。カナンの地は神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地です。アブラハムはあくまでも、自分の力(財産)ではなく、神によってこの地が与えられることを望んだのではないでしょうか。しかし、この時、アブラハムはサラを葬るために墓地を購入することを決心しました。それは、サラだけではなく、自分も家族も将来、共にそのお墓に納められることを願ったからではないでしょうか。
まず、アブラハムは墓地を得るために、ヒッタイト人に話を持ちかけました。4節「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私の所から移して、葬ることができます。」
アブラハムは丁重にヒッタイト人に話を持ちかけました。当時、寄留者の立場は弱く、土地を購入することは難しかったようです。また、その地の人々も寄留者に土地を売ることはありませんでした。そのような背景があるために。アブラハムはヒッタイト人に身を低くして墓地の購入を願い出たのです。ヒッタイト人たちはアブラハムに答えました。6節「ご主人、私たちの言う事をお聞き入れください。あなたは、私たちの間にあって神のつかさです。私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください。私たちの中にはだれ一人、亡くなった方を葬る墓地をあなたに差し出さない者はおりません。」アブラハムは確かに、寄留者ですが、多くの財産(羊)を有しており、ヒッタイト人に尊敬されていました。アブラハムはエフロンの畑地にあるマクペラの洞穴を求めました。イスラエルの墓は洞穴に納め大きな岩で入り口をふさぐ形になっていました。アブラハムは代価を払って墓地を購入するつもりでしたが、エフロンは11節「いいえ、ご主人。どうか、私の言うことをお聞き入れください。あの畑地はあなたに差し上げます。そこにある洞窟も差し上げます。私の民の者たちの前で、それをあなたに差し上げます。亡くなった方を葬ってください。」アブラハムはエフロンの申し出を丁重に断って言いました。13節「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことをお聞き入れください。畑地の価の銀をお支払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば死んだ者をそこに葬ることができます。」エフロンはアブラハムに恩を売り、親しい関係を持ちたいと考えたのではないでしょうか。アブラハムもそれを感じて、エフロンの申し出を断ったのではないかと思われます。そこでエフロンは銀四百シェケルで土地を売ることを承諾しました。一シェケルは11,4gと聖書の欄外にあります。計算すると4560gの銀となります。現在のお金に換算することはできませんが、かなりの高額となります。エフロンはアブラハムの足元を見て高額な値段を提示したのです。しかし、アブラハムはいくら高額な金額を提示されても、交渉するつもりはありませんでした。アブラハムはエフロンの提示した銀四百シェケルで墓地を購入したのです。アブラハムは、どれだけの金額を支払ってもその場所の畑地と洞穴を必要としていたからです。私たちの肉体は死後、土に帰り魂は神の許に帰ります。それゆえ、お墓もいらないと考える人たちもいます。しかし、お墓は、亡くなった者の為ではなく、生きている遺族のために必要なものです。日本でもお墓のことをメモリアルパーク(共同墓地)と呼ぶところもあります。それは記念碑です。お墓には亡くなられた方の名前と生まれた日と亡くなられた日が彫られています。それは、その方がこの地上で生きた証です。私たちはお墓を通して、亡くなられた方を思い出し、慰めを受けます。それゆえ、亡くなられた方のことを忘れないためにも、お墓は残された遺族にとって大切な場所なのです。
2、アブラハムの死(創世記25章)
創世記の25章7節を見ると、アブラハムは百七十五歳で地上での生涯を終えたことが記されています。アブラハムは七十五歳で神と出会い、カナンの地に向かいました。そして、ちょうど百年、神と共に歩んだことになります。その生涯には様々な事がありました。聖書の著者はアブラハムの最後をこのように記しています。創世記25章8節~10節「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。その息子イサクとイシュマエルは、アブラハムをマムレに面するマクペラの洞穴に葬った。これは、ヒッタイト人ツォハルの子エフロンの畑地にある。アブラハムがヒッタイト人たちから買ったあの畑地である。アブラハムと彼の妻サラはそこに葬られた。」とあります。アブラハムは満ち足りて息絶えて最期を迎え、サラが葬られているマクペラの洞穴に葬られたのです。ここで驚くことは、イサクとイシュマエルが一緒にアブラハムを葬ったということです。イシュマエルはイサクが生まれることによって、アブラハムの家から追い出された者です。それなのに、最後は、イサクと共に父アブラハムを葬ったのです。聖書には書かれていませんが、イサクがイシュマエルに呼びかけて共にアブラハムを葬ったのではないかと思われます。
最後に、誰にでも死は訪れます。私たちはその死に対してどのような準備をしたら良いのでしょうか。イエスは群衆にこのようなたとえ話を話されました。ルカの福音書12章16節~21節「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。』このたとえ話に登場する男は、自分のために地上の事だけを考え、物をたくさん蓄えました。しかし、この男にも死が訪れます。そのとき、彼が蓄えた財産はどうなるのかということです。私たちは何を第一に生活しているでしょうか。この世の事だけを考えているなら、彼のような人生を送ることになるでしょう。しかし、死は終わりではなく、死後の世界があります。聖書では罪ある者は神に裁かれ、罪赦された者は天の御国で永遠に神と暮らすと約束されています。私たちはこの地上での生活でどちらかを選択することになるのです。