「ソロモン王が得た物と失ったもの」第一列王記3章3節~15節
最初にダビデの家系図を見ていただくと、エッサイ(羊飼いの家)からダビデが誕生しイスラエルの二番目の王となりました。しばらくして、長男アムノンはアブシャロムの妹タマルを犯すという犯罪を犯してしまいました。しかし、ダビデ王はアムノンの命を惜しみ、アムノンを罰することをしませんでした。そのため、タマルの兄アブシャロムは義理の兄であるアムノンを憎み殺して外国に逃亡してしまいました。それからしばらくして、将軍ヨアブはダビデにアブシャロムを赦し、国に呼び戻すように進言します。イスラエルの国に戻ったアブシャロムは父ダビデに対する憎しみのため、周到な計画を立て、クーデターを起こし、父ダビデを殺そうとしました。しかし、それを知ったダビデは城を出て、荒野へと逃げていきました。そして、荒野において、父ダビデと息子アブシャロムとの間に戦争が起こり、アブシャロムは殺され、ダビデは王としての地位を取り戻したのです。しかし、アブシャロムの死はダビデにとって大きな悲しみでした。
ダビデが年を取り、ダビデの後継者の問題が急務となりました。その中で、手を上げたのがアドニヤでした。第一列王記の1章6節を見ると「彼の父は存命中『あなたはどうしてこんなことをしたのか』と言って、心を痛めたことがなかった。そのうえ、彼は非常な美男子で、アブシャロムの次に生まれた子であった。」とあります。アドニヤは王の信頼があり、美男子で、アブシャロムの次の子でした。誰が見ても、ダビデ王の後継者はアドニヤのように思われました。しかし、ダビデにはもう一人特別な子供がいました。バテシェバの子ソロモンです。ダビデは以前、ウリヤの妻バテシェバと姦淫の罪を犯してしまいました。神様は預言者ナタンを通して、ダビデの罪を厳しく指摘しました。ダビデは神様の前に断食をして悔い改めました。しかし、その時生まれた子は死んでしまいました。神様はダビデの悔い改めた姿を見られて、バテシェバにもう一人の子を与えられました。そして生まれたのがソロモンです。ダビデは自分の罪が神様に赦されたことを感じたでしょう。そして、ダビデは、ソロモンを特別に愛し、バテシェバにソロモンを自分の後継者とすることを約束したのです。ダビデ王の親しい側近たちはその約束を聞いていました。それなのに、アドニヤが王となろうと行動を起こし始めたのです。これは宮廷内の権力争いです。勝ったものが王となり、負けた者は王宮から追い出されるか死です。ダビデの親しい預言者ナタンはソロモンのために、ダビデ王に働きかけ、ソロモンを王に任命する準備を始めました。この戦いはソロモンが勝利し、ソロモンが王となり、後に、アドニヤは殺されてしまいました。
ここで皆さんに気付いていただきたいことは、元々ソロモンは王となる資格がなかったということです。長男はアムノンでした。彼がアブシャロムに殺されなければ、アムノンが王になっていたかもしれません。また、ソロモンの上にはアブシャロムを含んで何人もお兄さんが存在していました。順番から言えば、ソロモンは王になる可能性はありませんでした。しかし、ダビデ王のバテシェバへの約束のゆえにソロモンは王になることができたのです。ソロモンはどんなに神様に感謝したことでしょう。また、その背後に神様の計画、神の選びがあったのです。
ソロモンが王に就任した後、神様はソロモンに夢に現れ「あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。その時ソロモンが願ったものが9節「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と願いました。それを聞いて神様はソロモンに言われました。11節12節「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちを求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。」13節「そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。」ソロモンは自分のために、力や権力、富を求めませんでした。イスラエルの国を正しく裁くために知恵を求めたのです。神はそれを喜び、ソロモンが願わなかった、富と誉れをも与えられました。ソロモンの知恵は遠くの国にもつたわり、ソロモンの名声も多くの国に伝わったと言われています。
しかし、ソロモンの人生は失敗で終わってしまいました。ソロモンは外国の女性たちを愛し、彼女たちを迎えるとともに、彼女たちが信じる神々をもイスラエルの国に持ち込ませてしまいました。神様はソロモンに警告を与えましたが、その時にはすでにソロモンは聞く耳を持っていませんでした。神様はダビデとの約束にゆえに、ソロモンが生きている間は、平和を与えましたが、ソロモンが亡くなり、その子レハブアムの時代に、国を北イスラエルと南ユダに分割されたのです。そして、その後、この二つの国も偶像礼拝のために他の国々に滅ぼされてしまいました。
権力を持つということは恐ろしいことです。イスラエルの一番目の王、サウルも初めは神様に従いましたが、次第に高慢になり、神様のことばを退け、自分の欲望を優先するようになってしまいました。ソロモンも、自分は王になる資格がなかったにもかかわらず、神様の恵みによってイスラエルの王になりました。彼も初めは謙遜に神様の御心を行おうとしましたが、晩年には、神様から離れ、平気で神々を拝むようになってしまいました。このことは私たちに大切なことを教えています。新約聖書は信仰によって救われることを強調しています。もし、救いが行いによるのであれば、人は、自分の努力を誇る者になってしまうからです。努力して救われたならば、自分の努力を誇りますが、恵みによって救われた者は恵みを与えてくださった神を誇ります。そこに、信仰による救いが大切な意味があります。自分を誇るとき、神を忘れ悪魔の誘惑に陥りやすいからです。サウル王が神様から退けられた後、サウルに神様からわざわいの霊が降り苦しめられたとあります。私たちが救われたのは、私たちの努力ではなく、神様の一方的な恵みによります。しかし、私たちがそれを忘れ、自分の知恵や力にたよるなら、神様の助を失い、悪魔の誘惑が忍び込んでくるのです。また。私たちが、権力や力を持った時もそうです。豊臣秀吉も初めは戦の無い世の中を作ることが夢でした。しかし、権力を持つと、平気で人を殺すようになってしまいました。そこまで、いかなくても、私たちも、権威や地位を持つと、何か自分を偉いものと思い、周りの人々を蔑むようになってしまいます。高い地位にありながら、謙遜を持ち続けることは難しいことです。まず、私たちは救われる価値のない者であったが、神様の恵みによって救われたことを忘れないことです。ヨハネの黙示録2章と3章に七つの教会に対する神様からの警告があります。その中でエペソ教会に対して、神様は「あなたは初めの愛からはなれてしまった。」と警告しています。この言葉はエペソ教会だけではなく、私たちにも語られた言葉です。人の上に立つ人こそ謙遜が求められます。聖書にはたくさんの失敗者が登場します。しかし、最後まで謙遜であった人もいます。私たちはそのような人たちから本当の人生を学ぶものとなりたいものです。ソロモンが得た物、それは、多くの財産と名誉です。新約聖書では、ソロモンのことを栄華を極めたソロモンでさえと言われるほどです。では、彼が失ったものは何でしょうか。それは、神様の信頼と愛です。また、永遠の命です。永遠の命はお金では買えない尊いものです。この世の富は一時的なものです。しかし、死んだ後の世界は永遠です。神と共に永遠に天国で暮らすこと。これこそ、人間にとって一番大切なものです。