ダビデ王の後継者ソロモン

「ダビデ王の後継者ソロモン」列王記第一1章1節~10節

イスラエルの二番目の王様ダビデについて5回学びました。今日はダビデ王の後継者イスラエルの国の三番目の王様ソロモンについて学びます。

1.ソロモンの出生について。

ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その時に生まれた子は病気で死んでしまいました。ダビデは自分の罪を認めて神様の前に悔い改め、神様に赦しを願いました。そして、生まれたのがソロモン(平和の意味)です。ダビデは自分の罪が赦されたことを喜び、ソロモンを愛し、バテ・シェバにソロモンを自分の後継者にすることを約束しました。また、神様も預言者ナタンを通して、その子にエディデヤ(主に愛された者)と名づけさせたとあります。

2.後継者争い。

長男アムノンは異母兄弟のアブシャロムに殺されました。そのアブシャロムも父ダビデを殺して自分が王になろうと戦争を起こし、ダビデの軍隊に負けて戦死してしまいました。次にダビデの後継者として名乗りを上げたのがアドニヤです。アドニヤはアブシャロムの次に生まれた子で、美男子であったとあります。長男アムノンが殺され、アブシャロムも戦死してしまいました。次に王になれるのは自分だと考えたのでしょう。彼は、ダビデの将軍ヨアブと祭司エブヤタルを味方につけ、自分が王になる準備を始めました。しかし、アドニヤの動きを知った預言者ナタンは、すぐに、ソロモンを王にするようにダビデに働きかけました。年老いて死を待つばかりにダビデ王には、この後継者争いは辛いものだったでしょう。ダビデは最後の力を振り絞って、自分の後継者としてソロモンを指名し最後を迎えたのです。

3.ソロモンの知恵。

ギブオンで神様は王となったソロモンの夢の中に現れ、このように仰せられました。列王記第一3章5節「あなたに何をあげようか。願え。」この時、ソロモンは、大きな権力や財産、力を神様に願わないで、知恵を求めました。9節「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができましょうか。」神様はこの願いを喜び、ソロモンが願った知恵だけではなく、富と誉れをも与えると約束して下さいました。その通り、ソロモンの名声は遠くの国々にも知れ渡り、ソロモンはイスラエルの王の中で、誰よりも高い名声を得ました。

4.神殿建設と奉献の祈り。

ダビデは神様のために神殿を建てることを神様に願いましたが、ダビデは、多くの血を流したために、その願いはかなえられませんでした。その代り、神様はダビデの子に神殿を建てさせるように命じられたのです。ダビデは自分の子ソロモンのため、神殿建設に必要な木材や材料をたくさん準備しました。そして、ソロモンはさらに、それらに加えて、立派な神殿を完成させたのです。ソロモンは神殿が完成した後、イスラエルの民を集めて、長い祈りをささげています。それが、列王記第一8章12節から61節にまで及んでいます。

5.ソロモンの晩年。

ソロモンは神様から知恵を頂き、偉大な王として名声を得ました。また、神殿を完成することによって、イスラエルの国に繁栄をもたらしました。しかし、ソロモンは晩年に大きな間違いを犯してしまいました。ソロモンは多くの外国の女性を妻に迎えましたが、決して情欲の故ではありません。ソロモンは自分の国を戦争から守り、平安な時代を築くために、政略結婚を行い、周りの国々と友好関係を築いていったのです。しかし、それは神様の御心ではありませんでした。ソロモンは外国の女性を妻に迎えたために、その国々の神々さえ、イスラエルの国に持ち込ませてしまいました。ソロモンは彼女たちのために、異教の神殿を建設し、偶像を拝むことを許しました。そのため、イスラエルの国中に偶像礼拝が広がり、異教の神々を拝む人々が増えてしまいました。神様はこの事でソロモンに忠告しましたが、ソロモンは、すでに神様のことばに耳を傾けない者になっていました。結局、この罪のゆえに、イスラエルの国は次の王様、レハブアムの時代に北と南に分断されて、二つの国に分かれてしまったのです。

6.結論。

イエス様はマタイの福音書19章23節、24節でこのように言われました。「まことに、まことに、あなた方に告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。」「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」お金持ちは生活に困ることはなく、必要な物は何でも手に入れることができます。王様や高い権力を持つと、人の命さえ思うようにすることもできます。それは、神のような権力を持つことに匹敵します。そうなると、人は神様を求めたり、神様に頼ることが無くなり、神様から離れてしまいます。あの知恵者ソロモンでさえ、晩年、神様のことばに耳をふさいでしまいました。また、お金持ちでなくても、生きることに問題を感じない人は、神様を求めたり、必要を感じません。マタイの福音書5章3節に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われました。ここでイエス様が言われた「心の貧しい者」とは、「心が空っぽの者」「この世の物で満足できない心の持ち主」を指しています。この世の生活で満足している人に、神様や神様の助けは必要ありません。それゆえ、心に飢え渇きがあり、神様を求める人こそ、神はその人のために天の御国を備えてくださるという意味です。今私たちの心は飢え渇いているでしょうか。神様の助けを必要としているでしょうか。