ネヘミヤの祈りと城壁の再建

ネヘミヤ記2章1節~8節

紀元前568年にエルサレムが崩壊し、神殿が壊されました。そして、多くの民がバビロニヤに捕囚として連れて行かれました。その後、538年に捕囚が赦され、南ユダの人々は国に帰り、神殿の再建工事に取り掛かりました。いったんは邪魔が入りましたが、紀元前516年に神殿を完成させました。しかしそれから約60年たっても、エルサレムの廃墟は立て直せませんでした。ある時、ネヘミヤはユダから来たハナニにエルサレムの現状について尋ねました。1章3節「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」彼はこれを聞いてどうしたでしょうか。4節「このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。」とあります。5節から11節がネヘミヤの祈りです。彼は自分も含めイスラエルの民の罪を告白し、モーセに約束されたことば、神は神に立ち返る者を赦されるという約束を信じて、神に赦しと助けを求めました。

2章において、ネヘミヤは王の献酌官として、王にぶどう酒を注いでいました。しかし、ネヘミヤはいつもの状態ではありませんでした。エルサレムの民のことを思い、気持ちがふさいで暗い顔をしていたのです。献酌官とは、王の相談相手であり、王と直接会話ができる特別な職務です。王はネヘミヤのことを心配して彼に尋ねました。2節「病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしているのか。きっと心に悲しみがあるにちがいない。」王とネヘミヤの信頼関係をうかがわせることばです。ネヘミヤは非常に恐れながらも、心の思いを王に打ち明けました。ここにも、王とネヘミヤの信頼関係を見ます。普通、王に対して献酌官という立場の者が、自分の悩みを打ち明けるなど考えられないことです。3節「王よ。永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか。」王はネヘミヤに言いました。4節「では、何を望んでいるのか。」ネヘミヤは天の神に祈ってから王に答えました。5節「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」ネヘミヤにとってこの提案は思い切った提案でした。献酌官という立場で、個人的な願いを王に告げるなど考えられないことです。そこで、彼は神に祈り、思い切って自分の故郷エルサレムの復興を王に申し出たのです。王は快くネヘミヤの願いを聞き入れました。そこで、ネヘミヤは、王にその予定を伝え、川向こうの総督への手紙と、城壁を再建するための木材を得る許可を受けました。ネヘミヤは十分な準備をしてエルサレムに向かったのです。

ネヘミヤがエルサレムに来たことを快く思わない人たちもいました。ホロン人サンバラテ、アンモン人でその部下のトビヤです。ネヘミヤは誰にも告げずに、一人で、城壁の調査をしました。そして、主だった者を集めて、城壁の再建に取り掛かるように呼び掛けたのです。それを聞いた、サンバラテやトビヤやゲシェムは彼らを嘲り蔑んだとあります。ネヘミヤは彼らに言いました。20節「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。それで、そのしもべである私たちは、再建に取り掛かっているのだ。あなたがたには、エルレムのうちに何の取り分も、権利も、ゆかりもない。」

3章には、彼らが熱心に働く様子が記されています。4章では、彼らの働きを見て、サンバラテは非常に憤慨してユダヤ人を嘲りました。それだけではなく、彼らはエルサレムに攻め入り、混乱させようと陰謀を企てたともあります。そこで、彼らは神に祈り、昼も夜も見張りを置きました。また、ネヘミヤたちは剣や槍、弓を身近に準備しながら工事を続けました。そのほかにも彼らは執拗に邪魔をしてきましたが、ネヘミヤたちの熱心な働きによって五十二日という短時間でこの城壁の修復を完成させたのです。6章16節「私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」とあります。

ネヘミヤは優秀な官僚であり、良き指導者でした。彼の指導力のおかげで、エルサレムの城壁は五十二日間という短時間で完成することが出来ました。しかし、聖書を丹念に読むなら、彼が祈りの人であることがわかります。この働きの最初も、彼の祈りから始められました。また、実際に王の援助を受ける時も祈りがありました。また、工事が邪魔されて、困難な時でも彼は神に祈りました。ネヘミヤがこの工事を完成することが出来たのは、彼の祈りと、それに応えてくださった神の恵みによる助けがあったからでした。私たちは祈りの力というものを過小評価していないでしょうか。アブラハムがエジプトに下るとき、彼は妻のサラに妹だと言ってくれと頼みました。それはエジプト人を恐れたからです。しかし、サラはエジプトの王宮に連れて行かれました。それを救ったのは神でした。アブラハムは神の力よりもエジプトの力の方が大きく見えたのです。これは、アブラハムだけではなく私たちも陥りやすい失敗です。私たちは、問題が大きく見える時、神の力を小さく見てしまいます。しかし、信仰の目で神を見る時、この世の問題は小さく見えます。神にはできないことはないと信仰に堅く立つことが出来るのです。小手指教会に赴任する前、恩師の先生に言われました。「朝の祈りの時間を守りなさい。それがあなたの助けになります。」私はその言葉を信じて、今まで一度も朝の祈りの時間を欠かしたことはありません。32年間この教会の牧師であり続けられたのは、この祈りのおかげだと信じています。恩師の先生が言われた言葉は嘘ではありませんでした。確かに、ここまで苦しみや試練の時はありました。しかし、私もネヘミヤのように神に祈り苦難を乗り越えることが出来ました。皆さんも同じです。朝の時間新聞を読む前に、15分聖書を読んで、黙想の時間を持たれたらどうでしょうか。すぐに結果は出ないかもしれません。しかし、それを継続することによって確かに信仰は強くされます。私たちの人生は何があるか分かりません。そのために、目を覚まして準備をすることが大切なことではないでしょうか。