バプテスマのヨハネの死

マルコの福音書6章14節~29節

マルコの福音書6章1節から6節で、イエスの郷里での出来事が記されています。ここで郷里の人々は、イエスの話と御業に驚きましたが、イエスとその家族のことを知っているがゆえにイエスにつまづいてしまいました。彼らは、イエスの子どもの頃のこと、家族のことをよく知っているがゆえに、イエスが神の子であることを信じることが出来なかったのです。ここに人間の限界があり、イエスを神の子と信じるには、どうしても神の助けが必要なことがわかります。それゆえ、そこでは彼らの不信仰(イエスを神の子と信じることが出来なかった)のゆえに、イエスはそこでは、何も力ある業をおこなうことができずに、故郷を去ることになりました。

また、7節から13節で、イエスに宣教のために遣わされた十二人の弟子たちのことが記されています。イエスは彼らを二人一組にして遣わされました。また、イエスは彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになったとあります。それだけ、当時は汚れた霊に支配されている人が多かったということです。また、イエスは「杖一本のほかは何も待たないように、パンも、袋も、胴巻きの小銭も持って行かないように戒められました。それは、彼らが自分の持ち物に頼らないで、神によって養われることを学ぶためでした。当時のユダヤ社会では、そのように神の働きをする人を助ける、養うことが信仰の行いとされていました。12節13節「こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。」とあります。

イエスの働きが広く伝えられると、それを聞いたヘロデ王は、イエスのことを死んだバプテスマのヨハネがよみがえったのだと彼を恐れました。なぜなら、彼自身がバプテスマのヨハネを殺した張本人だったからです。他の人々は、イエスを「彼はエリヤだ(旧約聖書の偉大な預言者)」また、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていたとあります。イエスの評価はあくまでも預言者という評価でしかありませんでした。しかし、ヘロデ王だけは、自分が彼を殺したという負い目からか、イエスのことを聞いて、彼は、自分が殺したバプテスマのヨハネがよみがえったと信じてイエスを恐れたのです。17節から29節に、バプテスマのヨハネが殺されたいきさつが記されています。ヘロデ王は自分の兄弟ピリポの妻(ヘロディヤ)を自分の妻としたことで、バプテスマのヨハネからそれは、律法に反する行為だと責められ、彼を捕らえ、牢獄に入れてしまいました。しかし、ヘロデはバプテスマのヨハネの話を当惑しながらも喜んで耳を傾けていたとあります。しかし、ここで一つの事件が起こりました。ヘロデは自分の誕生日に多くの者を招待しました。その時に、ヘロディヤの娘が彼のために踊り、彼は大変喜び彼女に褒美を与える約束をしました。娘は、母にそそのかされ、バプテスマのヨハネの首を求めたのです。ヘロデ王は他の人の手前、少女との約束を拒むことが出来ずに、牢獄で、バプテスマのヨハネの首をはねて、彼女に渡したのです。この個所を読むと、バプテスマのヨハネの死は、何とみじめな最期であったように思われます。彼は、なぜこのような悲しい最期を迎えなければならなかったのでしょうか。もし、死が人生の最後であるならば、バプテスマのヨハネの死は、報われない死ということが出来ます。しかし、私たちイエスを神の子と信じる者にとっては、死は終わりではないことを信じています。私たちにとって死は、天の御国への旅立ちです。旧約聖書、新約聖書は、共に天国の存在について確かなことを証しています。特に、新約聖書において、イエスは天の御国を約束しています。イエスが弟子たちから離れ、天の父の御許に昇る日が近づいたとき、イエスは弟子たちに約束されました。ヨハネの福音書14章1節~3節「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょう。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

モーセは八十歳の時に、エジプトからイスラエルの民を助け出すように神に命じられました。モーセはエジプトで十の奇跡を行い、イスラエルの民をエジプトから助け出し、荒野へと入って行きました。しかし、彼らの不信仰のゆえに、イスラエルの民は四十年間荒野をさまよい歩くことになりました。四十年の間に、新しくされたイスラエルの民は、ヨシュアに率いられて、カナンの地に入りました。しかし、モーセは、カナンの地を前にその地を見ることはできるが、入ることはできないと神はモーセに言われました。荒野において、イスラエルの民が水がないとモーセに不満を表すと、神はこの石を打って水を出すようにモーセに命じました。モーセは、イスラエルの民の不満をこらえることが出来ず、怒りをもって石を叩き、そこから水を出してしまったのです。モーセは、神の業を自分の怒りによって行い、神の栄光を表さなかったゆえに、カナンの地に入ることが出来なかったのです。このカ所を始めて読んだとき、神は何と厳しいお方だと思いました。モーセは四十年苦労して、イスラエルの民を導いて、カナンの地の近くまで来たのに、一度の失敗でその地に入ることが出来ないとは、モーセがかわいそうだと思いました。しかし、ある注解書で、確かにモーセは神の約束の地カナンには入ることが出来なかったが、神は、モーセに対して、もっと素晴らしい天の御国に迎えられたのだと書かれてありました。それを読んで、なるほどと思いました。モーセの役割は、イスラエルの民をカナンの地に導くことでした。モーセは立派にその役割を終えて、神によって天の御国に迎え入れられて安息を得たのです。バプテスマのヨハネも同じではないでしょうか。彼の役割は、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにすることでした。バプテスマのヨハネは、ユダヤ人たちに悔い改めのバプテスマを呼びかけることによって、イエスの宣教の道を整えたのです。また、彼は、イエスを神の子羊と呼び、イエス・キリストが旧約聖書が預言したメシア(救い主)であることを宣言しました。彼も、神様から与えられた使命を全うし、天の御国に迎え入れられたのです。そこで、大事なことは、私たちがどのような死に方をするかが大事ではなく、どう生きたか大事なことだということです。私たちは偶然に生まれた者ではありません。神によって命が与えられました。そうであるならば、神は、モーセやバプテスマのヨハネのように、私たちに使命(役割)が与えられているはずです。私たちは何の目的をもって生まれたのでしょうか。私は、長い間その答えを見つけることが出来ませんでした。それゆえ、色々な仕事に就きましたが、どの仕事も満足できず、長続きしませんでした。しかし、クリスチャンとなり、聖書を読むうちに、牧師として神に仕えることが神の御心と知り、この仕事に就きました。あれから三十二年、一度も迷ったことはありません。皆さんも同じです。すべての人が牧師になることが神の目的ではありません。大切なことは、自分の欲望のために生きることではなく、人のため、人に喜ばれるために生きるということではないでしょうか。神は私たちを祝福するためにいのちを与えてくださいました。それは、自分の欲望を満たすためではありません。それは、人を助けるため、互いに仕えあうためではないでしょうか。そのように、自分の仕事に誇りを持ち、喜んで仕事ができる人は幸いな人です。