パウロとガラテヤの教会

「パウロとガラテヤの教会」ガラテヤ人への手紙2章16節

新約聖書は、イエス様の生涯を描いた福音書とイエス様の弟子たちが書いた手紙で構成されています。その中で一番、多くの手紙を書いたのがパウロです。パウロは、イエス様と直接出会った弟子ではありません。それどころか、キリスト教徒を激しく迫害したユダヤ教の律法の教師パリサイ人でした。その彼が、復活されたイエス様と出会い、180度変えられ、キリストの復活の証人となり、ユダヤ人ではない、異邦人にイエス様のことを伝えたのです。彼の働きによって、キリスト教は世界中に広まりました。ガラテヤの教会は、パウロがはじめて異邦人伝道の旅に出かけたときに作られた教会です。

パウロがガラテヤの教会を去った後、教会内部に問題が起こりました。ユダヤ人でクリスチャンなった人々が教会に入り込み、ユダヤ教の律法を守らなければ救われないと教えだしたのです。彼らはキリストの十字架を否定した者ではありませんが、救われるために、イエス様を信じる信仰プラス、律法の行いを守ることが必要だと主張したのです。また、彼らは、パウロの使徒としての権威も否定しました。彼は、イエス様が選ばれた12人の弟子(使徒)ではないとして、パウロの教えを否定したのです。パウロにとって、彼らの教えを受け入れることは絶対にできないことでした。なぜなら、パウロ自身、熱心にユダヤ教の律法を守ろうとしたからです。しかし、その律法を完全に守ることができないので、彼は苦しんだからです。そんな時に、パウロは、復活されたイエス様と出会い、救いは、律法を守る行いではなく、イエス様の身代わりの死と復活を信じる信仰によって救われることを知り、クリスチャンとなったからです。それゆえ、彼にとって、もう一度、ユダヤ教の律法を強制する教えは絶対に受け入れられない教えだったのです。

現在、私たちは、ユダヤ教の律法に縛られているわけではありません。しかし、クリスチャン、イコール正しい人間と言う考えに縛られていないでしょうか。または、クリスチャンは正しい人、正しい人にならなければならないと考えている人が多くいます。宗教改革者ルターもその一人でした。彼も、パウロ同様、自分の内面の罪に苦しみました。ルターは、激しい修道士としての修行に耐えました。それでも、自分の中に罪を見出し苦しんだのです。そんな苦しみの中で、ルターは、新約聖書の中のパウロの手紙を読んで、人は行いによって救われるのではなく、イエスを神の子と信じる信仰によって救われると理解したのです。ルターは自分たちクリスチャンを「罪赦された罪人」と呼びました。私たちは、罪のない完全な者ではなく、神によって罪赦された者にすぎないという意味です。しかし、かといって、パウロもルターも律法の教えを否定したわけではありません。律法は私たちに罪を教える大切な教えであることは認めています。しかし、その律法によっては人は救われえないと教えたのです。もし、律法(行い)で人が救われるなら、それこそ、イエス様の十字架の死は無意味になってしまいます。私たちが律法を守れないので、神様はご自身のひとり子イエス様を私たちの罪の身代わりとするために、人として遣わせてくださいました。イエス様は、私たちが律法の教えを完全に守れないので、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくだいました。もし、私たちが努力して律法の教えを完全に守れるなら、どうして神様は大切なひとり子を犠牲にするでしょうか。もし、私たちが、律法の教えを完全に守れるなら、何故、イエス様は十字架の上で死なれたのでしょうか。それは、すべて、私たちが律法を完全に守れない者だからです。それゆえ、イエス様は人として生まれました。また、十字架の上で死なれたのです。

では、私たちは正しい人間にならなくてもよいのでしょうか。また、何をやっても罪に罰せられないのなら、不正をしてもよいということでしょうか。そうではありません。私たちに求められているのは正しい人間になる努力ではなく、主によって備えられた道を歩むという生き方です。神は、私たちのために義の道を備えてくださいました。私たちはその道を歩む時、義の実を結ぶことになるのです。パウロはガラテヤの教会の人々に5章16節でこのように教えています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望に満足させるようなことはありません。」肉の欲望とは、クリスチャンになる前に私たちが求めたものです。それをリストに上げると19節「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」とあります。その反対に、神様の備えた道を歩むなら、御霊の実を結ぶと教えています。御霊の実は、22節「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。以前の私たちの心を占領していたのは、自己中心で、自分のことだけでした。その者が、キリストに出会って変えられたのです。16節「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」24節「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望と共に、十字架につけてしまったのです。」とあります。ここに、私たちの霊的な戦いがあります。悪魔は、私たちを誘惑し、以前の肉に従うものになるように近づいてきます。25節「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて。進もうではありませんか。」神は、私たちに自由意志を与えてくださいました。創世記でアダムとエバが悪魔に誘惑された時、ふたりは、悪魔の声を退けることもできました。しかし、ふたりは、神様の戒めを退けたのです。神様が私たちに下さった「自由意志」は神様からの恵みでした。しかし、アダムとエバはその恵みを悪い目的で用いてしまったのです。その結果、ふたりはエデンの園から追い出されてしまいました。そして、人間は、アダムとエバの子孫として、「原罪」罪を犯しやすい者として誕生するものとなったのです。しかし、そんな私たちを救うために、神様は、イエス・キリストを通して救いの道を備えてくださったのです。私たちは、悪魔の誘惑に弱いものです。そこで、神様は私たちのために、教会と聖書と祈りを与えて下さいました。私たちの戦いは、目に見える世界だけの戦いではありません。見えない敵との戦いがあります。エペソ人への手紙6章12節~18節「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯びを締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪いものが放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」とあります。自分の力に頼る者は、結局は自己満足になり、自分を誇る者となります。私たちは、自分の弱さを受け入れ、神に助けを求める時、私たちは神様の備えられた義の道を歩むことができるのです。