ペテロの生涯(4)ペテロの否認とイエスの赦し

ルカの福音書22章31節~34節 54節~62節 ヨハネの福音書21章15節~17節

ペテロの生涯からの学び(4)は、ペテロがイエスとの関係を否定する場面と復活されたイエスとペテロとの出会いの場面から学びます。

1、イエスとの関係を否定するペテロ(ルカの福音書22章31節~34節、54節~62節)

最後の晩餐とゲッセマネの園でのイエスの祈りの間に、今日、学ぶ出来事は起こりました。イエスはシモン・ペテロに言われました。31節「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」父なる神はなぜ、サタンの願い「弟子たちを麦のようにふるいにかける」ことを聞き届けられたのでしょうか。私たちは神様の計画をすべて知ることはできません。この時、父なる神がなぜ、サタンの願いを聞き届けられたのか、その理由は分かりません。ただ、わかることは、父なる神はサタンのために、弟子たちが試みに会うことを許されたのではないと言うことです。理由は分かりませんが、父なる神は弟子たちのために、サタンが弟子たちをふるいにかけることを許されたのです。それゆえ、イエスはペテロにこのように言われました。32節「しかし、わたしはあなたがたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたがたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」この時点で、イエスは弟子たちが立ち直ることを知っておられました。苦しみには色々な意味があります。その意味は、その時は分からなくても後になって分かることもあります。ただ、確かなことは、父なる神は、私たちを滅ぼすために苦しみを与えるのではなく、私たちを強めるためや、新しい気付きを与えるために、苦しみを用いることがあるということです。また、私たちは、失敗や苦しみを通してでなければ、学ぶことができないことがあるということです。ただ、この場面で私たちが学ぶことは、イエスが言われたように、試みの時に、私たちの信仰がなくならないようにイエスが祈ってくださっていると言うことではないでしょうか。

しかし、ペテロはイエスに言いました。33節「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」この言葉はペテロの真実の思いです。この時、ペテロは本当に、そのように自分のことを信じていたのです。しかし、イエスは彼に言われました。34節「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」この後、ゲッセマネでのイエスの祈りの場面があり、イエスはそこで捕らえられてしまいました。弟子たちはこの時、イエスを置いて逃げてしまいました。ペテロはイエスのことが心配で、裁判の場所へと忍び込みました。54節から62節にペテロがどのようにイエスの弟子であることを否定したのかが記されています。56節で召使の女性がペテロに、「この人も、イエスと一緒にいました。」と叫びました。57節でペテロは「いや、私はその人を知らない。」と否定しました。58節で他の男が「あなたも彼らの仲間だ。」と言い出しました。ペテロは「いや、違う」と否定しました。一時間ほどたって、別の男が59節「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」と言いました。60節「しかし、ペテロは、『あなたの言っていることは分からない』と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。」61節「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。』と言われた主のことばを思い出した。」62節「そして、外に出て行って、激しく泣いた。」とあります。この出来事は私たちに何を教えているのでしょうか。ペテロの弱さは、彼だけの問題ではなく、私たちも共通に持つ弱さではないでしょうか。イエスが捕らえられる前、ペテロは自分がイエスを知らないなどと絶対にないと信じていました。しかし、状況が変わると、ペテロは自分の身を守るために、イエスを知らないと言ってしまいました。これは、ペテロだけではなく、私たちの姿でもあります。私たちは安全な場面にいる時、自分は強いと感じますが、危険な場面に遭遇すると途端に自信を失い、弱い者になってしまいます。では、私たちはどうすれば環境に影響されない者になることができるのでしょうか。

2、イエスの赦し(ヨハネの福音書21章15節~17節)

イエスは、死より復活してその姿を弟子たちに示されました。また、イエスはペテロのために、三度、「あなたはわたしを愛しますか。」と声をかけてくださったのです。この会話の中で、ペテロは、誰よりもイエスを愛していますとは言いませんでした。ペテロはただ「あなたがご存じです。」と答えています。ここにペテロの変化を見ます。以前は誰よりも一番自分がイエスを愛していると信じていました。しかし、ペテロは、あの、裁判のところで、三度イエスを知らないと言ってしまいました。そのことを通して、ペテロは自分の強さに頼る者ではなく、イエス・キリストに頼る者に変えられたのです。イエスは三度「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。ここにイエスの赦しのことばがあり、この言葉によってペテロはもう一度、イエスの弟子として立ち上がることができたのです。

最後に、イエスが群衆にお話になられた、マタイの福音書7章24節のたとえ話「砂の上の家と岩の上の家」のたとえ話を思い出しましょう。砂の上の家も岩の上の家も見た目は変わりません。しかし、洪水がこの二つの家を襲いました(状況が変わりました。)。すると、砂の上の家は倒れてしまい、ひどい倒れ方をしたとあります。岩の上の家は倒れませんでした。それは、岩の上に土台が据えられていたからですとあります。ペテロの話から考えるとペテロはどちらの上に家を建てた人でしょうか。それは、砂の上のような弱い自分自身の上でした。それゆえ、状況が変わると、ペテロは自分を守るために、イエスとの関係を否定してしまいました。しかし、失敗した後のペテロはどうでしょうか。ペテロはしっかりとイエスに信頼する者へと変えられました。私たちの周りの状況はその時々で変わります。しかし、イエスの愛は永遠に変わらないとあります。また、神は私たちを捨てないと約束してくださいました。私たちが目に見えませんが、この世を支配しておられる神に信頼をしているとき、私たちは恐れがありません。しかし、私たちは完全な信仰を持つことはできません。それゆえ、神のことば(聖書)が必要になります。聖書は神のことばであり、神との約束の書です。不安になった時、聖書のことばは、私たちの力となります。ダビデが信じる神と私たちが信じる神は同じ神です。ダビデは詩篇23篇でこのように歌いました。1節~6節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとも、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから、あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」神がともにおられる。この約束がダビデだけではなく、私たちにも与えられているのです。