ペテロの生涯(5)教会の誕生とペテロの説教

使徒の働き2章14節~36節

イエスが十字架に付けられ殺される前に、イエスは弟子たちに聖霊を待ち望むように命じられました。また、使徒の働き1章8節でこのように弟子たちに言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」この約束のことばが、使徒の働き2章で起こりました。1節~4節「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」「五旬節の日」と言うのは、ユダヤ教の三大祭り(過越しの祭り、仮庵の祭り)の一つで、成人した男性は、どこに住んできても、この祭りの時には、神殿に宮詣をしなければならないと定められていました。それゆえ、この時、多くのユダヤ人と外国人がエルサレムの町に集まっていました。弟子たちは聖霊に満たされて外国のことばで、何を話し出したのでしょうか。11節を見ると「私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」とあります。弟子たちは自分も知らない外国語で神の大きなみわざを語り始めたのです。それは、後にパウロによって行われる異邦人伝道を預言するような出来事でした。しかし、外国語の分からない、ユダヤ人たちは、弟子たちの姿を見て13節「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ。」と嘲る者たちもいたとあります。外国語の分からないユダヤ人にとっては、酔っ払いが騒いでいるようにしか見えなかったのでしょう。その批判を受けて、ペテロは弟子たちを代表してこの状況を説明しました。これが、キリスト教最初の説教と言われています。ペテロはこの状況で、人々に何を語ったのでしょうか。

まず、ペテロは15節で「今は、朝の九時ですから、この人たちはあなたがたが思っているように酔っているのではありません。」と説明しました。「朝の九時」とは、敬虔なユダヤ人にとって大切な祈りの時間です。それゆえ、そんな大切な時間に私たちはお酒を飲むと言うことはありませんと、酔っぱらっているという意見に対して、そうではないと説明しました。そして、パウロは旧約聖書のヨエル書のことばを引用して(17節~21節)、弟子たちに約束の聖霊が与えられたと証言したのです。さらに、ペテロは22節から35節において、イエスの十字架の死と復活について人々に説教しました。また、ペテロは、イエスの復活を説明するとき、ダビデのことばを引用しました。25節~28節この言葉は詩篇16篇8節から11節の引用です。ここで、ペテロは、27節「私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に、滅びをお見せにならないからです。」と言う言葉を取り上げ、この言葉がダビデに語られた言葉ではないと説明しました。なぜなら、ダビデはすでに死んで葬られているからです。そこで、ペテロは、このことばが、ダビデの子孫イエス・キリストのよってなされたと説明したのです。そして、私たちはその、イエスの復活の証人であると人々に訴えたのです。また、その事の証明として弟子たちに聖霊が与えられたのだと説明したのです。また、ペテロは詩篇110篇を引用して、「主は、私の主に言われた」という箇所を説明して、神の右の座におられる方がイエス・キリストであり、そのイエスをあなた方は十字架に付けて殺してしまったと、ユダヤ人の罪を指摘したのです。36節「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

人々はペテロの説教に心刺され、使徒たちに言いました。37節「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」ペテロは彼らに言いました。38節「それぞれ罪を赦していただくために悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」41節「彼らのことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」とあります。それまで、百二十人ほどの人々が人目を避けて隠れるようにお祈りをしていました。それが、弟子たちに聖霊が下ることによって三千人が仲間に加えられたのです。この日を私たちは教会の誕生日としています。

ペテロはこの説教の中で三つのことを伝えています。

  • ユダヤ人の罪を指摘しました

神はユダヤ人の救いのために、救い主であり神の子イエス・キリストをイスラエルの地に誕生させました。しかし、ユダヤ人は神から遣わされた、救い主を十字架に付けて殺してしまった。

  • イエス・キリストの復活

イエス・キリストは人として生まれましたが、神の子でした。それゆえ、死に縛られることなく、死より三日目に復活して天の父のもとに昇って行かれた。そして、私たちはそのことの証人である。

  • 悔い改めて、イエスの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい

バプテスマ(洗礼)はユダヤ教の教えの中にもありました。しかし、それはユダヤ人以外の外国人がユダヤ教に改宗するときに行われる儀式でした。しかし、バプテスマのヨハネは、ユダヤ人も洗礼を受けなければならないと教えました。彼は、ユダヤ人にも罪の赦しが必要であることを人々に教えたのです。そして、多くのユダヤ人がバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。しかし、それは不完全な洗礼で、完全に人の罪を取り除くことはできませんでした。イエス・キリストはご自分のいのちを十字架の上でささげることによって、私たちの救いを完成されました。それゆえ、イエスの名によって洗礼を受ける者は、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦されるとペテロは人々に教えたのです。

教会とは、建物のことではありません。イエスの御名によって、罪赦された者の集まりです。ペテロは、イエスを知らないと、イエスとの関係を三度も否定してしまいました。しかし、ペテロは復活されたイエスと出会って、その罪が赦されたことを体験しました。ペテロにとって、イエスとの関係を否定すると言う大きな罪を赦されたことは、どんなに大きな喜びだったことでしょう。ペテロはこの喜びをイスラエルの人々に大胆に語ったのです。私たちの証も同じです。私たちはどのような罪から救われたのでしょうか。また、私たちは何によって救われたのでしょうか。多くの罪が赦された者こそ大きく愛するとあります。私たちは言葉ではなく、罪赦された者の喜びを、家族や友人に身をもって証ししたいと思います。