ペテロの生涯(8)教会内部の罪

使徒の働き4章32節~5章11節

教会が誕生し、聖霊の働きによって多くの人々が、イエスを救い主と信じ、救われた人々がたくさん教会に加えられました。教会が大きくなると、その働きをよく思わない人々も現れ、ユダヤ教の指導者たちから、使徒たちが迫害を受けるようになりました。今日は、教会内部に起こって来た問題について学びます。聖霊の働きによって、多くの人々がイエスを救い主と信じ、洗礼を受けて教会に加わる人々が増えて来ました。しかし、その中には、イエス・キリストを信じることによって、仕事を失った人や家から追い出された人々が教会に集まるようになりました。使徒たちは彼らを助けるために経済的な支援をする必要がありました。そこで行われたのが、使徒の働き4章32節「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分の所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。」34節35節「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持て来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった」とあります。新しく教会に加えられた人の中には、裕福な人もおり、貧しい人々もいました。裕福な人々は、貧しい人々を見て自主的に彼らの生活を支えるために、自分の持ちものを売って、お金に変え、使徒たちに差し出し、助けあったと言うことです。それは、自主的な働きであり、使徒たちから強制されたものではありませんでした。36節37節「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有している畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。ここでなぜ、バルナバの名前が出て来たのか。それには、わけがあります。この後、パウロが登場し、バルナバがパウロを使徒たちに紹介したり、二人で協力して世界宣教の働きに出かけます。使徒の働きの著者ルカは、この場面でバルナバがどのような人物であるかを紹介するために、この出来事をこの場面で紹介したものと考えられます。この場面を通して、この頃からバルナバが使徒たちに信頼される人物であったことが分かります。

使徒の働き5章で、アナニアとサッピラの問題が起こりました。この問題は、先ほどの教会の状況を理解できないと、この問題を正しく理解することはできません。アナニアとサッピラの問題はただ単に、お金を惜しんで嘘をついたという問題ではありません。クリスチャンでない人が、この個所を読んで、二人の命を奪うのは、ひどすぎるのではないかと言われたことがあります。表面的にはそう見えるかもしれませんが、この問題を深く掘り下げて考えると、二人の罪は重く、簡単に見逃すことができない罪であることが分かります。神はなぜ、この二人に死と言う厳しい裁きで臨まれたのでしょうか。5章1節2節「ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。この場面で二つのことに気が付きます。1、「ところが」と言う言葉で始められている点です。この言葉をとおして、この出来事が、先のバルナバの行為と比較して見なければならないという点です。アナニアとサッピラの行為が、バルナバの行為に引き続いて行われたという点です。2、二人は、土地を売った後、代金の一部を自分のものにしようと計画したと言うことです。初めはそうではなかったように思います。二人は、バルナバのように土地を売って使徒たちの足もとに置こうとしたのですが、代金が惜しくなり、一部を隠して、残りを全額と偽って使徒たちの足もとに置いたのです。ペテロはアナニアに言いました。3節4節「アナニア、なぜあなたはサタンに心奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか、売らないでおけば、あなたのものであり、売ったあとでも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」ペテロがどうしてアナニアの企みを知ったのかわかかりませんが、5節「このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。」のです。また、三時間ほど後、妻のサッピラがこの出来事を知らずに入って来ました。8節「ペテロは彼女に言った。『あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。』彼女は『はい、その値段です』と言った。」9節「そこでペテロは彼女に言った。『なぜあなた方は、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。』」10節「すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。」とあります。

ここで、イエスが弟子たちに話されたタラントのたとえのお話を思い出しましょう。マタイの福音書25章14節~30節。このたとえ話で、主人は能力に応じて一人には五タラント、もう一人には二タラント、もう一人に一タラントを預けて旅に出かけました。一タラントは六千デナリ、一デナリは一日の労働賃金と言われています。それゆえ、一タラントを現在のお金に換算すると約六千万円に相当する金額です。それからかなりの時がたってから、主人が帰って来ました。そして、彼らと清算をしました。五タラント預かった者はさらに五タラント儲けて主人に喜ばれました。二タラント預かった者も二タラント儲けて主人に喜ばれました。しかし、一タラント預かった者はそのお金を地に隠し、増やすことをせずそのままの金額を主人に差し出しました。このしもべは、主人を恐れ、預かった金額を減らしてはいけないと思い、地に隠して、そのお金を増やす努力をしなかったのです。主人は彼を怒り、外の暗闇に追い出されてしまいました。なぜこの主人は一タラント預けた者をそれほど怒ったのでしょうか。預けたお金を減らさなかったわけだから、それほど怒る必要もないように思いますが、このたとえ話の中心は、主人から預かったものをどのように用いたかが重要なテーマです。金額の多い少ないではありません。それゆえ、五タラント増やした者も、二タラント増やした者も、主人は同じように喜んでいます。この主人は、一タラント預かった者がそれを少しも用いようとしなかった(増やそうとしなかった)点について怒ったのです。たとえこのしもべが一タラントを減らしたとしても、そのしもべが一生懸命その金額を用いようとしたならば、預かったタラントを減らしたとしても、外の暗闇に追い出されることはなかったと思います。

私たちの財産、健康は神より与えられたものです。しかし、それは同時に預けられたものでもあります。それゆえ、私たちはその財産をどのように用いるかを考えなければなりません。使徒の働きに戻って、教会が誕生し、多くの人々が教会に加えられましたが、そのために、貧しい人々も集まり、教会は彼らを助け養わなければなりませんでした。バルナバはそれを見て、自分の畑を売り、その代金を使徒たちに託して、教会で困窮している人々を助けるためにささげたのです。アナニアとサッピラはどうでしょうか。彼らも最初は困っている人を助けようと土地を売却しました。ところが二人はそれを惜しく思うようになってしまいました。ペテロはそれを「サタンに心を奪われ」と表現しています。彼らは、困っている人々より自分の欲が優先してしまい、自分たちのために、土地の代金の一部を自分のものとしてしまったのです。それは、神を欺く行為であり、貧しい人々に対するあわれみの心を閉ざす行為でした。先ほどのタラントのたとえでは、一タラントを預かったしもべが、預かった一タラントを用いずに地に隠した行為と同じです。私たちの財産、健康、時間も神から預かった賜物です。私たちはそのタラントを自由に使うように神より委ねられています。しかし、私たちはその賜物、財産、健康、時間を神に喜ばれるために用いているでしょうか。自分のためだけに用いていないでしょうか。もう一度、私たちに与えられているものが神のものであり、私たちが神から預かったものを、自分のためだけに用いているのか、神に喜ばれるように用いているかを考えたいと思います。