出エジプト記2章1節~10節
新型コロナウイルスの感染が終息したわけではありませんので、感染予防をしっかり行いながら礼拝を守っていきます。そういうわけで、しばらく不自由な形で礼拝を守りますが皆様のご協力とご理解をお願いいたします。
今日からモーセの人生を三回に分けて学びます。一回目は「モーセの誕生」について。モーセが生まれた環境はイスラエルの民にとって最も困難な時代でした。エジプトにおいてへブル人(イスラエル人)の人口が急増し、エジプトの王パロは危機感を覚えるようになりました。そこで彼らの人口増加を抑えるために、男の子が生まれたらナイル川に投げ込んで殺せとの命令が出されたのです。モーセが生まれたとき、彼の両親はモーセのいのちを惜しんで三ケ月間その子を隠し通しました。しかし、モーセの泣き声が大きくなり、これ以上モーセを隠すことができないと覚悟した両親は、彼をかごに入れて、ナイルの葦の茂みに置くことにしました。誰かに拾われていのちが助かるように願ったのです。自分の子のいのちを助けるためとはいえ、自ら我が子をナイル川岸に置き去りにする両親の気持ちはどんなにつらいことだったでしょう。しかし神はその子を見捨てることはありませんでした。エジプトの王の命令によっていのちを奪われそうになったモーセを助けたのは、エジプトの王の娘でした。彼女はナイル川に水浴びをしようと出てきたときに、あることに気づきそのかごを見つけたのです。彼女はかごの中に入れられていた子がへブル人の子であることに気づき、哀れに思ってその子を助けたいと願われました。その光景を見ていたモーセの姉ミリアムは王女の前に進み出て、「その子のために乳母を連れてきます。」と言ってモーセの母を連れてきたのです。王女はモーセの母に彼が大きくなるまで養育するように頼みました。しかもその養育費を王女自ら支払うと約束したのです。こうしてモーセは公けに隠されることなく、また王女の庇護と経済的な支援を受けて育てられることになったのです。
モーセの誕生から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。確かにモーセは神より、エジプトの苦しみからイスラエルの民を開放するという特別な使命が与えられ生まれてきた者でした。しかしそれはモーセに関してのことだけでしょうか。私たちの誕生にも神の特別な計画があるのではないでしょうか。神は単なる宇宙の力ではありません。意志を持ったお方です。私たち人間ですら、何の目的もなく物を作ることはしません。であるならば、神が私たちにいのちを与えてくださった背後には神のご計画があるのです。私たちは何の目的もなく偶然に生まれた者ではありません。神の愛と計画によって生まれてきた者です。そこに人間の本当の価値があるのです。
イエスの福音6月号「献身の証」に五日市教会の田村耕造牧師の記事が載っています。先生が二歳と小学校一年の時に事故に遭われましたが、どちらの時も奇跡的に助けられたと書かれています。田村先生はこのことが偶然で、運が良い出来事だったとは考えないで、「神にいかされていることを思わずにはおれませんでした。」と述べています。私たちの人生にも同じようなことがあるのではないでしょうか。神を知らない者にとっては偶然なこと運が良かったと思えることも、私たち神を信じる者にとっては、神の恵みであり、神に生かされていると気づかせられる出来事なのです。
私自身小学校一年生の時に大きなけがをしました。柵を乗り越えようとして、転落し頭から落ちて、頭に大けがを負いました。幸いにも、発見が早かったためにいのちに別状はありませんでしたが、頭を三針縫い一ケ月入院しました。今考えても神の助けとしか思えません。また母が私をみごもった時、父は母に私をおろすように言ったそうです。すでに兄と姉がおりました。久富家の経済は貧しく、三人目の私を育てるのが困難だと判断したのでしょう。父は経済的な理由で母に私をおろすように命じたのです。しかし、母は私を産みたいと強く父に訴えました。母の性格は父に逆らうような人ではありませんでしたが、その時の母は私のいのちを助けるために必死で父に願ったそうです。父はその母の姿を見て私を産むことを認めました。この時の母の思いがなければ、私はこの世に生まれることはありませんでした。今はその母の背後に神がおられたことを信じています。私たちはだれでも神の愛とご計画によって生まれた者です。
先ほどの田村先生の文章の、最後に「少しでも誰かのお役に立てる人生を歩まなければと思いました。」とあります。私自身も牧師になるとは考えてもいませんでしたが、神より牧師になるように召命をいただいた時、恐れ多いと思いましたが、神のために自分の人生をささげようと決心しました。神は私たちを愛していのちを与えてくださいました。そして神は私たち一人一人にふさわしい使命を与えてくださいました。神はすべての人が牧師、宣教師になることを願っているわけではありません。教会には牧師のほかに様々な奉仕の場があります。また社会においても私たちは必要とされています。大切なことは、私たちは自分の力で生きているのではなく、神によって生かされていることを信じることです。そうすることによって私たちの人生は変わってきます。以前は自分のため、自分の目標を達成するために生きてきました。しかし今は、神に生かされている道を歩んでいます。以前は自分の思いを優先して生きてきました。神に生かされている人生では、神の御心が何か、どこにあるのかを考えながら選択し歩む人生です。
モーセとは「引き出す」という意味の名です。この名はエジプトの王の娘が「水の中から、私がこの子を引き出したから」モーセと名付けたとあります。しかし神は、イスラエルの民をエジプトから引き出すという意味でモーセと名付けられたのです。この世の権力(エジプトの王の力)はこの幼子を殺そうとしましたが、神はその娘を通して幼子を助けられました。この世の権力は力があり人のいのちを奪う力があります。しかし、神の力はそれ以上です。その神が私たちにいのちを与え生きる者としてくださいました。イザヤ書43章4節で神はイザヤを通してこのように言われました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
神はヤコブやイスラエルの民だけではなく、神が創られたすべての者に対してこのように語りかけてくださいます。私たちのいのちはどれほど価値があり、私たちの人生はどれほどすばらしい人生でしょうか。そのことは神と出会わなければ一生分からないことなのです。