ヨシュアとカレブの信仰

民数記13章1節~3節、25節~33節

 民数記1章1節「エジプトの地を出て二年目の第二の一日に」とあります。イスラエルの民がエジプトを出た時、男性だけで六十万人と記されています。女性子供を含めると百万人以上の人々が一緒にエジプトを出たことになります。また、神はイスラエルの民に昼は雲の柱、夜は火の柱としてご自身を現わされ、イスラエルの民はそれに従って行動しました。雲の柱、火の柱が動かなければ、彼らは何日もそこに留まったと聖書に記されています。イスラエルの人々の旅は、ゆっくりとした歩みであったと考えられます。先週お話したモーセの姉ミリアムの出来事はそのような背景で起きた出来事でした。

 民数記13章1節2節「主はモーセに告げられた。『人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。』」4節から選ばれた族長の名が記されています。その中で、6節「ユダ部族からはエフンネ子カレブ」8節「エフライム部族からヌンの子ホセア(ヨシュア)」とあります。十二名はモーセの命令を受けて40日をかけてカナンの地を偵察して、イスラエルの民に報告しました。25節「四十日の終わりに、彼らはその地の偵察から戻った。」とあります。27節「彼らはモーセに語った。『私たちは、あなたが遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物のです。』」彼らが偵察してきた地は、豊かな場所で、彼らはそこで採取した果物を差し出しました。28節29節「ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。」と報告しました。その報告を聞いたイスラエルの民は落胆しました。エジプトを出て二年をかけて、荒野を通りカナンの地に近づいたのに、その地が豊かで素晴らしくとも、そう簡単に手に入らないことを知った彼らは動揺しました。30節「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。』」カレブは先程の12人の偵察隊の一人です。彼も、アマレク人や自分たちより強力な民族がその地を支配していることを見た者です。それでも彼は、落胆することなく、前に進むことを提案しました。彼は、なぜそんなことが言えたのでしょうか。31節「しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。『あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。』」民数記14章1節「すると、全会衆は大声を上げて叫び、民はその夜、泣き明かした。」とあります。イスラエルの民は、カレブ以外の人々の報告を聞いて、気力がなえて、エジプトに帰ろうと言い出しました。今度はヨシュアも立ち上がり、イスラエルの民に言いました。6節~8節「すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。『私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。』」10節「しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。」とあります。この後、彼らは不信仰のゆえに四十年荒野をさまよい、エジプトに帰ろうと言った大人たちは、荒野で亡くなり、カナンの地に入ることは出来ませんでした。彼の子らが成長し大人となり、ヨシュアとカレブとともにカナンの地に入り、その地を占領する事が出来たのです。

十二人の偵察隊がカナンの地で見て来たことは、その地が素晴らしい土地であることでした。しかし、その地には大きな民や城壁に囲まれた町があり、自分たちの力では到底勝つことが出来ないという現実でした。しかし、ヨシュアとカレブが見たのはそれだけではありません。現実の上にある神の御手でした。考えてみると、彼らイスラエルの民は、エジプトでの10の災害を体験した人々でした。また、紅海の乾いた地を奇蹟に渡って来た者たちです。なのに、なぜ、彼らには神の御手が見えなかったのでしょうか。信仰とは、神の存在を信じることだけではありません。信仰とは神の力と権威を信じて、神と共に歩むことです。ヨシュアとカレブは、神の力と権威を信じ、神が共におられるので、どんな大きな民をも追い出すことが出来ると信じました。それが彼らの信仰です。しかし、後の十人の偵察隊とイスラエルの民には神の力や権威よりもカナン人や他の民族の力と権威が大きく見え、それを恐れたのです。私たちの信仰は常に、信仰と不信仰の間で揺れ動いています。神の力や権威が大きく見える時、この世の権威や力は小さく見えます。しかし、この世の権威や力が大きく見える時、神の力と権威が小さく見えて、いくら神でも不可能だという思いに支配されてしまいます。

私たちが信じる神はどのような神でしょうか。聖書は、神は天地の造り主、全能の神と記しています。エジプトの地において十の災害でエジプト人を苦しめ、紅海ではエジプトの軍隊を全滅させた神です。しかし、イスラエルの民はそのことを経験してもなおカナン人や他の民族を恐れたのです。彼らの体験は過去のものとなり、現実の生活の中では活かされませんでした。私たちも同じことがいえます。私たちもイエス・キリストが神の子であり、私たちの罪の身代わりとして、十字架で死なれ、復活して今も天において生きておられることを信じたからこそ洗礼を受けた者です。しかし、それも時間と共に喜びが無くなり、この世の財産や名誉の方が魅力的に見えてしまいます。私たちが毎日聖書を読むのは、聖書を理解するためではなく、聖書を通して、神と深く交わるためです。神が今も生きておられるなら、ダビデを助けた神は、私をも助けて下さると信じるためです。聖書が過去の歴史の記述でしかないならば、今の私たちの生活に何の役にもたちません。ヨシュアとカレブが神の御手を見ることが出来たのは、彼らが今も生きておられる神の力と権威を信じていたからです。

モーセが天に召された後、神はヨシュアをモーセの代わりの指導者と選ばれました。そのことが書かれているのがヨシュア記です。ヨシュア記の1章で、神はヨシュアに「強くあれ、雄々しくあれ」と繰り返し語られています。それは、ヨシュアがモーセの後継者となることを恐れたからです。また、神はヨシュアに言われました。ヨシュア記1章9節「わたしはあなたに命じたではないか、強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」ヨシュアは神のことばを信じ、イスラエルの民をヨルダン川を渡らせ、カナン人の地に住む民族を滅ぼして、神の約束の地を支配することが出来たのです。ヨシュアは百十歳で死んだと聖書に記されています。彼の人生は神と共に戦う人生でした。カレブもカナンの地に入ったのは85歳でした。彼も神と共に戦い、アナク人を追い出しヘブロンを自分たちの土地として占領したのです。エジプトから出て来た者で、カナンの地に入ることが出来たのは、ヨシュアとカレブだけでした。他のイスラエルの民は不信仰のゆえに荒野で亡くなりました。ヨシュアとカレブは信仰によってカナンの土地を得たのです。