「不思議な星に導かれた博士たち」マタイの福音書2章1節~12節
マタイの福音書5章に、イエス様が群衆にお話しになられた有名なことばがあります。マタイの福音書5章3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」ここでイエス様が言われた「心の貧しい者」とは、心の中が空っぽの者、この世の物では満足できない心を持った人のことを言います。この世には、私たちの欲望を満たす物がたくさんあります。富、名誉、恋愛、娯楽、快楽など。しかし、心の貧しい者は、そのような物で心を満たすことができず、本当の幸いを求める者です。その人は神を見出し、天国の約束を自分の物にするという意味です。この世の物で満足する人は、神様を必要とはしません。それゆえ、天の御国にも興味を持つことがありません。その人の心は、この世の物で満たされ、満足しているのです。
先程、お読みしましたマタイの福音書2章には、三つの立場の人々が登場します。
1.東方の博士たち
ここに登場する博士たちが、どこからエルサレムにやって来たのか、昔から色々と議論されてきました。一番有力な意見が、バビロニヤから来たという意見です。イスラエルの国はソロモンの子、レハブアムの時代に北と南に国が分裂してしまいました。その後、北イスラエルの国は紀元前720年にアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国は、紀元前585年にバビロニヤに滅ぼされてしまいました。そして、バビロニヤの王は、南ユダ王国の役に立つ者、技術者、王族、貴族の大多数のものを捕囚(奴隷)として、自国に強制的に移住させました。その後、70年後にユダヤの国は国を再建することが許され、信仰に熱心な者は国に帰り、国を立て直そうとしましたが、また、ある者はバビロニヤに残りました。それゆえ、バビロニヤには、ユダヤ教に習慣や文化が残されたと考えられます。当時、博士と呼ばれていた人たちは、自然科学や星占いに精通している者で、星の動きを見て、自然災害や世界の情勢を研究していました。その彼らが、不思議な星を発見し、この星に導かれてエルサレムまでやって来たのです。
2.ヘロデ王について
実は、ヘロデ王はユダヤ人ではありません。彼は、エドマヤ人(エドム人)で、ヤコブの兄弟エサウの子孫です。ヘロデはローマ政府に取り入り、ローマ政府の力を借りてユダヤの国の王に就任した王様です。それゆえ、ユダヤ人は彼を嫌い、王として尊敬しませんでした。また、ヘロデ王はユダヤ人から好感を得ようと、エルサレムの神殿を再建しました。ヘロデは、政治家としては手腕家で、人を裏切りながら、次々に出世し、ユダヤの国の王の地位を手に入れたのです。また、彼は疑いやすく残忍な性格でした。それゆえ、博士たちが王を訪問し、「ユダヤ人の王としてお生まれた方はどこにおいでになりますか。」と問われた時、自分の地位を脅かすものが生まれたことを知り、その幼子を殺そうと計画しました。また、博士たちが自分の所に戻らず、姿をくらませたことを知ると、ベツレヘムにいる二歳以下の男の子を残らず殺させました。ヘロデとはそのような残忍な王様でした。
3.祭司たち
ヘロデ王に、キリストはどこで生まれるのかと聞かれた、祭司長たちは、「ユダヤのベツレヘムです。」とはっきりとヘロデ王に応えています。それは、旧約聖書のミカ書に「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。」と書かれてある聖書のことばを知っていたからです。ところが、その後、彼らは、東方の博士たちと共に、救い主を探しに出かけて行ったでしょうか。彼らは捜しに行きませんでした。私が初めてこの聖書の個所を読んだ時に抱いた疑問は、なぜ、神様は、ご自分に仕える祭司たちに、救い主の誕生を知らせないで、外国人である、東方の博士に知らされたのだろうかということでした。
当時のローマ政府は、宗教活動には寛容で、自由に自分たちの神々を礼拝することを許していました。それゆえ、ユダヤの国でも、自由に神殿礼拝をすることが許されていたのです。また、ユダヤの国は、自治権が与えられ、自分たちが選んだ議員によって、政治を行うことが許されていました。それを、サンヘドリンと呼び、71人の議員で構成されていました。また、その議員の半数はサドカイ派と呼ばれ、祭司階級の人々が占め、後の半数はパリサイ派と呼ばれ、保守的で、民衆に旧約聖書を教える律法学者たちが占めていました。民衆はパリサイ派を支持しました。ローマ政府は、自分たちの影響力を残すために、サドカイ派に経済的な支援を与えていました。それゆえ、祭司たちはローマ政府の支持を得て、ぜいたくに暮らしていたのです。彼らにとって、今のぜいたくな暮らしに満足し、新しく生まれた救い主などまったく興味がなかったのです。
4.結論
神様はなぜ、東方の博士たちに、救い主の誕生を知らせたのでしょうか。それは、彼らが不思議な星に導かれ、新しく生まれる王に興味を持つことを知っていたからです。イエス様のことばで、もう一つ有名なことばがあります。マタイの福音書7章7節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」今の日本は豊かで、神様を必要としない時代です。神様を知らなくても普通に生活できます。しかし、心の中はどうでしょうか。本当に、この世の物、お金や仕事、愛情に満足しているでしょうか。以前、教会に来る前の私は、お金を儲けて成功することが人生の幸いだと考えました。それゆえ、10年先の人生を考え、お金を貯えて何か事業を始めることを計画していました。初めは、お金を貯えながら、将来、自分に合った事業を考えることは楽しいことでした。しかし、本当にお金を儲けて、事業に成功することが人にとっての幸せだろうかと考えると、そうとは思えなくなりました。「人はどうして生まれ、死んだ後どうなるのか。」中学生の時に疑問に思ったことが心の中に甦ってきました。そんな時に、教会に誘われ、聖書を読むようになりました。そこには、天地を創造された神様が存在し、今も生きて、私たちを愛していると記されていました。天地を創られた神様が私たち一人一人を本当に愛しているだろうか。初めは信じられませんでした。その時の私は、神様の存在は否定はしませんでしたが、神様は遠くにおられた、遠くから宇宙全体を支配しているそのようなイメージでした。それゆえ、神様が、人間一人一人に関心があり、一人一人を愛しているという言葉を信じることができませんでした。しかし、その反面、本当に神様がそのような神様なら信じてみたいと思いました。そして、神様への求めが生まれ、聖書を通して神様を捜しました。その結果、神様のことば通り、神様と出会うことができたのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。」とイエス様が言われるように、求めが与えられ、聖書を通して、神様を捜すなら、私たちは誰であっても神様と出会うことができるのです。