神様から喜びの知らせを受けた羊飼いたち

「神様から喜びの知らせを受けた羊飼いたち」ルカ2:8~20

先週は、不思議な星に導かれて、おさな子イエス様を礼拝した東方の博士たちから学びました。今日は、主の使いによって、救い主の誕生の知らせを受けた羊飼いたちについて学びます。

当時の羊飼いは、たくさんの羊を所有するお金持ちの羊飼いと、彼らに雇われている貧しい羊飼いの二つに分かれていました。ルカの福音書2章に登場する羊飼いたちは、主人に雇われた貧しい羊飼いたちと考えられます。また、当時の雇われた羊飼いと言う仕事は、身分が低く、人々から軽蔑を受ける身分でした。特に、神様の戒めを守るように民衆に教える、パリサイ人たちは、神様の戒めを守れない彼らを罪人と呼び、彼らに近づきもしませんでした。しかし、そのように人々からのけ者にされ、疎外されていた羊飼いたちに、神様は、救い主の誕生と言うすばらしい喜びの知らせを伝えられたのです。その知らせを受けた彼らはどうしたでしょうか。15節「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」と言ってすぐに出かけました。そして、飼葉桶に寝ておられるイエス様を探し当てることができたのです。

神様はなぜ、この貧しい羊飼いたちに救い主が生まれたという、喜びの知らせを伝えたのでしょうか。羊飼いたちは、仕事柄、神様の戒めを守ることができません。それゆえ、神様の戒めを教えるユダヤ教の指導者パリサイ人たちは、彼らを神様から祝福をうけられない人々、また、神様から遠く退けられた人々として、罪人呼ばわりしていました。羊飼いたちもそのことは知っており、自分たちは安息日も守ることができず、神様から祝福を受けられない身分であることを知っていました。そんな自分たちに主の使いが現れ、驚くべき光景の中で救い主の誕生を知らされたのです。彼らはどんなに喜んだことでしょう。彼らはその喜びのために、じっとしていることもできず、急いでおさな子を捜しに出かけたのです。

1.放蕩息子の話。ルカの福音書15章11節~32節

ルカの福音書15章11節から、イエス様が群衆にお話になられた有名なたとえ話があります。その話の中で、イエス様は、兄と弟の二人の息子と、お父さんとの関係についてお話になられましたが、前半の弟とお父さんとの関係が強調されて、お兄さんとお父さんの関係について、あまり話されないことがあります。聖書に書かれている字数の量も、弟とお父さんとの関係が多く書かれています。しかし、イエス様がここで群衆にお話になられようとされたことは、弟とお父さんとの関係だけではなく、兄息子とお父さんとの関係も含まれています。それゆえ、このお話は両方の息子とお父さんの関係と考えなければなりません。

(1)弟息子と父親の関係

弟息子は、父が生きている時に、父に財産(遺産)を求め、多くの財産を得ると、家を出て遠くへ出かけてしまいました。その後、弟息子は、財産を湯水のごとく使い果たし、飢饉も重なり、食べるにも困るような状況に追い込まれました。そこで、弟息子は、父のもとで豊かに暮らしていた時代のことを思い出し、父の家に帰ることを決心し、家に向かいました。すると弟息子が家に着く前に、父が息子を見つけて、彼に走り寄り、彼を抱きしめ、喜んで彼を受け入れ、彼のために盛大な宴会を催したというお話です。ここで、父は帰って来た息子を咎めませんでした。それどころか喜んで彼を迎え入れ、彼のために宴会を開いたのです。そこに、イエス様は神様のもとに立ち返った人々を喜んで迎える父なる神の姿を美しく描き出したのです。

(2)兄息子と父親との関係

次に、イエス様は兄息子と父親との関係を描いています。兄は弟がぼろぼろになって帰ってきたにもかかわらず喜んでいません。自分で財産を湯水のように使い果たし、ぼろぼろになって今更帰って来ても、自己責任で弟が悪いといった態度です。さらに、父親が弟を責めることなく、家に入れて宴会を催したことに腹を立てています。さらに、彼は、自分はお父さんに忠実に仕えて来たのに「友達と楽しめと言って子山羊一匹すらくださったことはありません。」とお父さんを非難しています。イエス様はここに、羊飼いや貧しい人々など、神様の戒めを守れない人々を非難するパリサイ人の姿を描いているのです。イエス様が彼らに願っていることは、32節「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と言っています。イエス様はそのような、神様の戒めを守れない貧しい人々を非難するのではなく、憐れみの心をしめすべきではないかと、パリサイ人たちに問いかけているのです。

2.「医者を必要とするのは病人です」マタイの福音書9章9節~13節

取税人という仕事も当時、ユダヤ人に嫌われ、パリサイ人たちから罪人と呼ばれる人々でした。彼らは、ローマ政府のためにユダヤ人から税金を集める人々で、また、彼らはその税金の一部を自分のふところに入れ、財産を貯えていたのです。イエス様はそんな仕事をしているマタイに自分の弟子になるように声をかけました。マタイは自分の仕事を捨ててイエス様の弟子になったのです。イエス様の弟子になったマタイが一番初めに行ったことは、イエス様を自分の家に招き、取税人仲間や貧しい人たちを招いて宴会を開いたことです。マタイは自分の友人たちにイエス様を紹介したかったのでしょう。しかし、それを見たパリサイ人たちは、罪人とよばれる人々と食事をしているイエス様を非難しました。イエス様はこれを聞いてこのように言われました。12節「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」13節「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」神様の御心は、動物の犠牲をたくさんささげることではなく、隣人に対してあわれみの心を持つことだと彼らに言われたのです。イエス様の行動は、神様の御心を表すものでした。イエス様は身をもって、神様が、貧しい者たちを愛しておられることを表されたのです。

3.結論

神様が、貧しく、人々から疎外されている羊飼いたちに、救い主の誕生を知らされたのは、神様がそのような、貧しい人々や社会から疎外されている弱い人々をも愛しておられることを示すためでした。また、普段、人々からのけ者にされ、邪魔者扱いされていたからこそ、彼らは喜んで神様の愛を受け取り、救い主の誕生を心から喜んだのです。パリサイ人律法学者たちは、自分の力で神様の律法を守り、神様の前に罪が無く、正しい人間であることを誇りました。彼らには救い主の誕生は必要なかったのです。まさに、彼らには医者は必要ありませんでした。しかし、自分の罪を認める者には、病人が医者を必要とするように、救い主イエス様の誕生が必要です。イエス様の誕生は、私たちの罪の問題を解決するため、また、私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬためでした。罪がわからない者には、この神様の愛がわかりません。自分の罪を認める者だけに、イエス様の誕生は祝福と喜びの出来事となるのです。