主と共に歩む幸い

「主と共に歩む幸い」マタイの福音書11章28節~30節

先週はイースター礼拝で、イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死なれ、三日目に復活して天に昇られ、私たちの罪が赦され、天国に私たちの住まいがすでに備えられた、というお話をしました。しかし、神様の恵みは、天国だけではありません。ある人は、死ぬ前にイエス様を信じて、天国に行ければよいので、今は神様に縛られないで自由に生きたいと言いました。確かに、神様を信じるとは、神様の戒めに従って生活することですから、神様に縛られるように思うかもしれません。しかし、実は、神様の戒めは私たちを縛ることが目的ではなく、私たちを守るために神様が与えてくださった恵みなのです。例えば、交通ルールと言うものがあります。「青は進め、黄色は注意して渡りなさい。赤は止まれ。」と教えられました。このルールを守っている間は誰でも安全です。しかし、この信号を無視して、赤で渡ったりすると事故に遭うことがあります。誰が悪いのでしょうか。信号を守らなかったその人が悪いのです。しかし、実際に車に乗っていて、信号が赤ばかりに引っかかると、イライラして信号などなければと思います。それと同じように、神様と共に歩むことも、自分の思うとおりに歩くことができなくて、イライラし、神様のことばに従わないで、自分の思いを優先してしまうことがあります。その結果、思いもよらない、事態に巻き込まれることがあるのです。

旧約聖書の歴代誌第二の25章に、南ユダの王様アマツヤという人が登場します。彼は25歳で王に就任しましたが、2節「彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。」とあります。彼が王となり、権力を握ると、「彼は自分の父、王を打ち殺した家来たちを殺した。」とあります。しかし、彼はその家族には手を出しませんでした。それは、モーセの律法に「父親がこどものために殺されてはならない。こどもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならないからである。」という戒めに従ったからでした。

また、彼が南ユダの軍隊を召集すると三十万人が集まりました。そして、彼はさらに軍隊を強固にするために、イスラエルの国から傭兵十万人を銀百タラントで雇いました。その時、神の人(預言者)が現れ、王様に言いました。7節「王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは共におられないからです。」8節「それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。」そこでアマツヤは神の人に言いました。9節「では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。」神の人はアマツヤに答えました。9節「主はそれよりも多くのものをあなたにあたえることがおできになります。」それを聞いてアマツヤはイスラエルの傭兵十万人を北イスラエルの国に返したのです。そして、アマツヤは南ユダの兵士三十万人でエドム人と戦い大勝利を得ました。ところが、アマツヤは戦利品とともに、エドム人の神々(偶像)を持ち帰り、自分の神々として祭ったとあります。そこで、神はもう一度、神の人をアマツヤの所に遣わし彼に言いました。15節「なぜ、あなたは、あなたの手からその民を救い出すこともできないような神々を求めたのですか。」王は彼に言いました。16節「私たちはあなたを王の議官に任じたのか。身のためを思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。」預言者はアマツヤに言いました。「私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行い、私の勧めを聞かなかったからです。」アマツヤは預言者の声に聞き従いませんでした。その後、アマツヤは高慢となり、隣の北イスラエルに戦争を仕掛け、自ら敗れて殺されてしまいました。最初の2節「彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。」という言葉は、彼が本当の信仰を持って神様のことばに従ったのではなかったという意味だったのです。

ルカの福音書17章5節6節に使徒たちがイエス様に「私たちの信仰をましてください。」とお願いする場面があります。それに対してイエス様は6節「もしあなたがたが、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、いいつけどおりになるのです。」と言われました。弟子たちが求めたのは自分の信仰を強めることです。しかし、イエス様が言われたのは、信仰とは自分の信仰を強めることではなく、本当の信仰(神様への信頼)を持つなら、たとえからし種ほどの小さな信仰でも、桑の木に命じれば海の中でも植わるという意味です。問題は、自分がどれほど大きな信仰を持つかではなく、全き心を持って神様を信頼するかどうかということです。パウロはコリント人への第二の手紙の中で12章9節「ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」10節「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と教えています。私たちは自分が強い時は、自分の力に頼って神様のことばを退けてしまいます。それゆえ、自分の弱さ、無力なことを認める時に、神様に全き思いを持って従うことができるということです。讃美歌の333番の歌詞に「わが、やいばを くだきたまえ。」という歌詞があります。人は自分の強さを砕かれて初めて、神様に従うことができるのです。

マタイの福音書11章29節に戻って、イエス様は、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。熟練した馬は、まっすぐに歩くそうですが、若い馬は、すぐに脇道にそれてしまいます。それゆえ、若い馬は、熟練した馬に繋がれて、まっすぐに歩くことを学ばされるそうです。若い馬にしてみれば、窮屈で歩きにくいかもしれませんが、それによって正しく歩むことを学びます。私たちも、時として、神様のことばに従うことに疑問を感じたり、従いたくないという思いに支配されます。しかし、神様は私たちを愛し、私たちを最善の道に導いてくださいます。そこに、神様への信頼、信仰があります。私たちは目先の利益に目を奪われがちですが、神様は私たちの何倍も先を見ておられるお方です。神様は、苦しみや私たちの失敗さえも益に変えてくださるお方です。その時は、その苦しみの意味がわからないこともありますが、神は意味のない苦しみを与えるお方ではありません。時に、神様への信頼を試されます。しかし、神様は私たちのために、ひとり子イエス様を犠牲にしてくださったお方です。神様に信頼して、ともに信仰の道を歩きましょう。