「人となられた神」ピリピ人への手紙2章6節~11節
以前、グノーシス主義という異端の教えが初代教会の頃にあったことを紹介しました。その教えとは、二元論という考え方で、霊的なものは善で肉的なことを悪と、物事を二つに分けて考える思想です。そう考えると善なる神が悪である肉体を持って誕生するなど考えられないことでした。そこで、彼らは、神が人間イエスに宿り、福音を宣べ伝え、十字架につけられ殺されされる前に、人間イエスから離れて、天に昇って行ったと考えたのです。(仮現論)その考えならば、神が人として生まれることもなく、神が人に捕らえられ殺されることもありません。神が偉大なお方であれば誰しもそのように考えます。日本では、人が神になることは特別なことではありません。将軍や天皇が神として祭られています。しかし、人間が神になるのと、神が人間になるとは、大きな違いがあります。先ほどの二元論の考えでは、聖い神様が罪ある汚れた人間になるなど考えられないことだったのです。
しかし、聖書はそのように教えていません。先ほどお読みしました、ピリピ人への手紙2章6節から「キリストは神の御姿であられる方なのに」「神のあり方を捨てられないとは考えず」「ご自分を無にして」「仕える者の姿をとり」「人間と同じようになられました」「人としての性質をもって現れ」「自分を卑しくし」とあります。神が人なることは、「神の姿を捨てること」また、「ご自分を無にすること」「自分を卑しくすること」なのです。神はなぜそこまでして人となる必要があったのでしょうか。それは、罪人とである私たちを救うためです。旧約聖書では、神は人の罪を赦すために、動物の犠牲を代わりにささげなさいと教えられました。しかし、それは完全な罪の赦しにはならず、そのため、何度も動物の犠牲をささげなければなりませんでした。私たちの罪を贖うためには、罪の無い完全ないのちが必要でした。そのいのちとは、神のいのちしかありません。(すべての人は罪人のため)しかし、神は肉体を持たないために死ぬことができません。そのため、私たちの罪の身代わりとして死ぬために人として肉体を持ってお生まれになられたのです。
私たちは、クリスマスが近づくと、イエス様の誕生のお話をよく聞きます。私が初めて聖書を読んだとき、どうして、イエス様が処女のマリヤから生まれなければならなかったのか理解できませんでした。ただ、イエス様が神の子なので奇跡的な(人とは違う)生まれ方をしたのかと思っていました。それゆえ、イエス様の処女降誕を信じることができませんでした。それは、おとぎ話(作り話)と同じように理解していたからです。しかし、そこには深い神様の計画があったのです。もし、イエス様がマリヤとヨセフとの夫婦の関係で誕生したならば、私たちと同じ、アダムと同じ罪の性質を持って生まれてきてしまいます。それならば、イエス・キリストに罪が無いことを証明することはできませんでした。聖書は、イエス様の誕生をマリヤが聖霊によって身ごもったと教えています。決して、イエス・キリストはマリヤとヨセフのこどもではありませんでした。ルカの福音書では、「聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方の力がマリヤをおおう。」と説明しています。これは、聖霊の働きにより、マリヤの体を通して、神の子イエス様が誕生されたということです。神は肉体を得るために、処女マリヤの肉体を通られたということです。ですから、イエス様は私たちと同じ肉体は持たれましたが、神の本質を持ってお生まれになられたということです。これを専門のことばでは「二性一人格」と呼びます。一人の人格に、神の性質と人の性質を持たれたお方という意味です。
神が人として生まれることは、神の姿を捨てることであり、自分を無にし、卑しくなられることでした。しかし、イエス様の謙遜はそれだけではありません。ピリピ人への手紙2章8節「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とあります。ただ、人の罪の身代わりとして死ぬだけなら、十字架ではなく、名誉の死というのもあったはずです。十字架の死は、極悪人に対する一番過酷な刑罰です。なぜ、十字架の死なのでしょうか。それは、私たち一人ひとりの罪の重さを現したものです。私たちは、神様の前にどれだけ大きな罪を犯してきたでしょうか。また、イエス様の十字架の死は、過越しの祭りの時に行われました。過越しの祭りは、エジプトに降る神の刑罰から助かるために、羊を殺し、その血を家の門とかもいに塗りなさいと命じられ、神様はその血を見てその家を通り過ぎる(災いが過ぎ去る)と約束されました。過越しの祭りとは、神の刑罰からの救いを感謝するお祭りなのです。それと同じように、イエス様は人々の見ている前で、血を流し、贖いの子羊として、公に殺されなければならなかったのです。
キリスト教は、イエス・キリストだけを救い主と信じる以外には救いはないと教えます。それゆえ、ある人々は、キリスト教の教えは狭いと批判します。だれでも、まじめにどんな神様でも信じるならば救われる(天国に入れる)と考えます。もし、神の子であるイエス様が人として生まれなければ、神の子であるイエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架につけられて殺されなければ、そういう考えも成り立つかもしれません。どんな神様でも真心を込めて信じるなら天国に入れるかもしれません。しかし、歴史的事実として、イエス・キリストは誕生し、十字架につけられて殺されたのです。もし、他に救いの方法があるならば、神はご自分のひとり子を人として誕生させ、十字架の上で殺して、私たちの罪の身代わりとされるでしょうか。イエス様が人として生まれ、十字架で殺されたのは、それ以外に私たちを罪から救う方法がなかったからです。それゆえ、私たちの救いは、イエス・キリストを神の子と信じる以外にはないと聖書は教えているのです。神の立場からすれば、罪を犯したのは人間です。罪を犯した人間は自分で努力して、自分の罪の償うべきだとも考えられます。しかし、神の愛が、私たちを見捨てることはできませんでした。誰でも、目の前におぼれた子供がいれば、自ら助けようと水の中に入ります。神も同じように、罪に苦しみ私たちを見過ごすことができなかったのです。それが、究極的な神様の愛です。私たちは、その神の愛ゆえに、罪から救われ、天の御国に入れる特権を神様から与えられたのです。救いは誰でも無代価、ただでいただけます。しかし、神は私たちにその命を与えるために、ひとり子を犠牲にし、イエス様はご自分のいのちを犠牲にされたのです。救いとはそれほど大きな犠牲の上に成り立っているのです。また、それは、神がそれほど、私たちを愛しておられることの証明なのです。