十字架の意味・贖い

ルカの福音書23章39節~43節

イエスの復活を祝うイースターの前に、十字架の意味について考えたいと思います。私たち人間の力で解決できない問題に「罪と死」があります。神が六日間で天地を創造された時、罪も死もありませんでした。人間は神と共にエデンの園で永遠に暮らす者として創造されました。神は最初に創造された人アダムにこのように命じられました。創世記2章16節17節「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」創世記の3章で蛇が登場し女(エバ)を誘惑しました。創世記3章1節「蛇は女に言った。『園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。』」4節5節「すると蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。それ(善悪の知識の木)を食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。』」6節「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。神の憐れみによって二人は、すぐには死にませんでした。しかし、二人は罪を犯し神との親しい関係を失いエデンの園から追い出されてしまいました。しかし、神はすでに、この時イエス・キリストによって、人の罪の問題を解決する方法を計画されました。創世記3章15節のことばは、原始福音と言われ、イエス・キリストの勝利を預言した言葉です。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼(イエス)はおまえ(悪魔)の頭を打ち、おまえは彼(イエス)のかかとを打つ。」

私たちは、イエス・キリストがどのような方法で処女のマリアから生まれたのか、その方法を知ることはできません。しかし、なぜ、イエス・キリストが処女のマリアから生まれなければならなかったのか、その理由は明らかにされています。神は旧約聖書の時代から、モーセを通して、罪の贖いのために、牛や羊をささげるように命じました。しかも、それは傷の無い物でなければなりませんでした。しかし、動物のいのちでは、人の罪を完全に贖うことはできません。人の罪を完全に贖うためには、罪が無い完全な生贄でなければなりません。しかし、罪の無い完全な人はいません。罪が無いお方は神だけです。しかし、神は私たちと同じ肉体を持つ者ではなく、死ぬこともありません。私たちの罪の贖いとなるためには、私たちと同じ肉体を持った神でなければなりません。イエス・キリストはそのために、神の姿を捨てて、一人の赤子として誕生してくださったのです。それが、クリスマスの祝福です。

イエス・キリストは30歳で宣教の働きを始めました。そして、33歳で十字架に付けられて殺されました。この3年の間に、イエス・キリストは人々の病を癒し、福音を宣べ伝えました。しかし、イエスの教えは、当時のユダヤ教の指導者、律法学者たちの教えとは違った教えでした。人々は喜んでイエスの教えに耳を傾け、洗礼を受けました。律法学者たちはイエスを恐れ、自分たちの教えを守るために、イエスを殺すことを決断したのです。

イエスは祭司たちから遣わされた役人に捕らえられましたが、イエスの力であれば彼らから逃れることもできました。しかし、イエス・キリストは彼らに抵抗することなく、捕らえられました。イエスが捕らえられる前、イエスはゲツセマネの園で父なる神に祈りました。マタイの福音書26章39節「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」杯を過ぎ去らせるとは、十字架の死を避けることです。しかし、イエス・キリストは十字架の死が父なる神の御心と知り、役人たちにご自分の身を引き渡したのです。イエス・キリストは最初の預言のことばの通り、十字架に付けられて殺されてしまいましたが、イエス・キリストは神の子であるゆえに、死より復活して、弟子たちにその姿を現し、天の父の許に昇天されたのです。

イエスが十字架に付けられたとき、イエスの右と左にも犯罪人が十字架に付けられていました。その一人がイエスに言いました。ルカの福音書23章39節「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。』と言った。」40節~42節「すると、もう一人が彼をたしなめて言った。『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。』そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください』」43節「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」パラダイスとは、天国のようなところです。二人とも罪を犯した犯罪人です。初めの人は、今の苦しみからの救いをイエスに求めました。しかし、もう一人は、自分の罪を認め、イエスの国、御国でイエスと共にいることを求めました。イエス・キリストは私たちの罪の問題を解決するために、神の姿を捨てて人として生まれました。また、私たちの罪の身代わりとして死ぬために十字架でいのちを犠牲にされました。イエスは病人を癒し、病の苦しみから病人を救われました。しかし、イエスが人となられたのは、私たちの罪の問題を解決し、天の御国に招くためでした。私たちはイエス・キリストに何を求めているでしょうか。この世の富や経済的な豊かさを求めるのはご利益宗教と言われます。いくらお金があっても天の御国にはいることはできません。私たちの一番の問題は、罪と死の問題です。この問題が解決しない限り、私たちは心に平安を持つことはできないのです。