十字架への道(5)神の子キリストの死

マルコの福音書15章1節~39節

先週は、イエス・キリストが律法学者たち、祭司長たち、長老たちに捕らえられ、最高議会(サンヘドリン)において、神を冒涜した罪で死刑の判決が言い渡されたところまで学びました。15章の1節を見るとその後、彼らはイエスを縛ってローマ総督ピラトに引き渡したとあります。当時、ユダヤはローマ政府の支配下にあり、治安の維持と税金を集めるためにローマ総督によって治められていました。ユダヤ人たちは、宗教の自由や議会を開くなどの自由は与えられていましたが、人を公に死刑にする権限は与えられていませんでした。その権限はローマ総督に与えられており、ユダヤ人たちはイエスを公に罪人として死刑にするためにピラトに引き渡したのです。イエスを殺すだけならば、ひそかに彼を殺すことはできたでしょう。しかし、そうなれば弟子たちもおり、イエスの教えが広められることが考えられます。そこで律法学者や祭司たちは、イエスの命だけではなく、イエスの教え自体も葬る必要がありました。彼らはローマ政府の権限でイエスを十字架に付けて殺すことによって、イエスが重罪人であることを世間に知らせるために、イエスをローマ総督ピラトに引き渡したのです。

ピラトはイエスが無実であり、祭司長たちの妬みによってイエスが訴えられていることを知っていました。6節「ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人を釈放していた。」7節「そこにバラバという者がいて暴動と人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。」とあります。ピラトは祭りの時に行われていた「恩赦」を利用して、イエスの命を助けようとしました。9節「そこでピラトは彼らに答えた『おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。』」しかし、祭司長たちはバラバを釈放してもらうように群衆を扇動しました。12節「そこで、ピラトは再び答えた。『では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。』」すると彼らは「十字架に付けろ」と叫びました。ピラトは彼らに言いました。14節「あの人がどんな悪いことをしたのか。」彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだとあります。ピラトはユダヤの治安を守るためにローマ政府から遣わされた役人です。彼にとって一番困ることは、暴動を起こされることです。暴動が起きた場合、責任を問われ左遷されるかもしれません。祭司長たちはそれを知っていたので、群衆を扇動しピラトに圧力をかけたのです。15節「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスは鞭で打ってから、十字架につけるために引き渡した。」ピラトは自分の身を守るために、イエスが無実であることを知りながら、彼を十字架で殺すために、群衆に引き渡したのです。

16節から20節まで、イエスが受けた辱めが記されています。イエス・キリストは神の子であるのに、どれほど大きな苦しみと辱めを受けたことでしょう。それは、すべて私たちの罪の身代わりとなるためでした。以前「パッション」という映画を見た時、この場面がリアルに描かれていました。見ているのが苦しく涙が出るほどでした。その後、イエスは十字架の横木を背負わされ、ゴルゴタに向かいました。しかし、イエスは力尽きて動けなくなり、近くを歩いていたクレネ人シモンが、むりやりその横木を背負わされ、イエスと共にゴルゴタまで歩きました。当時、十字架の横木を他人に背負わせるということは考えられないことでしたが、イエスの体力は限界に達し、動けなくなったために特別な処置として行われたものと考えられます。

イエスは犯罪人と共に午前九時、十字架につけられました。そして、息を引き取ったのが午後の三時です。イエスは六時間、十字架につけられ苦しみを負われました。イエスはこの苦しみの中で次のように叫ばれました。34節「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」イエスがこのことばを叫ばれたことに対して、二つの解釈があります。一つは、詩篇22篇の御ことばを叫ぼうとして力尽きたという解釈です。詩篇22篇の1節を見ると「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」とあります。この詩篇は神を呪う詩ではありません。苦しみの中でも最後は神を褒めたたえる詩になっています。イエスは、苦しみの中でも、神を信頼していることを人々に伝えようとして、詩篇の22篇を叫ぼうとしたが、一節を叫んで力尽きたという解釈です。もう一つの解釈は、言葉の通り、神がイエスから去ったという考えです。イエスは神の子でしたが、人の罪を背負うために人として生まれました。神はイエスに一人の人間として、すべての人の罪を背負わせるために、この時、イエスから完全に離れたという解釈です。イエスは一人の人間としてすべての人の罪を背負わなければなりませんでした。しかし、神が自分から去ることは想定外でした。イエスは一人の人間として、人の苦しみを負い、苦しみの中で先ほどのことばを叫ばれたという解釈です。どちらが正しいかはわかりません。しかし、イエスが受けた苦しみは、どれほど大きなものだったでしょう。私たちの罪はそれほど重いということです。

また、イエスが息を引き取った時、38節「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。ここでいわれている「神殿の幕」とは、特別な幕です。神殿は聖所と至聖所(契約の箱が安置されているところ)に分けられていました。その間を仕切っているのがこの神殿の幕です。大祭司は一年に一回、贖罪の日に血を携えて至聖所に入ることが許されていました。この幕が上から下まで真っ二つに裂けたということは、イエスの死によって神と人との間の幕が取り除かれ、新しい神と人との時代が始まったことが象徴的に表された出来事です。イエスが私たちと同じ、ただの人間であったとしたら、イエスの十字架の死は悲劇でしかありません。一人の青年が無実の罪で殺されただけです。しかし、聖書はそれで終わりではありません。イエスは死より三日目に復活され、弟子たちにその姿を現した後、天に昇って行かれました。イエスが死より三日目に復活された事の物的証拠はありません。神が私たちに示して下さったのは、弟子たちの証言だけです。もし、イエスが復活の物的証拠を残したとしたら、私たちは、その物を神のように崇めたのではないでしょうか。それは、聖書が禁じる偶像礼拝になってしまいます。イエスは、イエスの復活を信じないトマスに言われました。ヨハネの福音書20章29節「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人は幸いです。』最高議会(サンヘドリン)において、イエスはご自分が神の子であることを認められました。しかし、人々はイエスの言葉を信じることが出来ずに、イエスに神を冒涜した罪で死刑の判決を下しました。私たちはイエスをだれと信じているでしょうか。イエスが私たちと同じ人間であったら、死からの復活もなく、ただの悲しい出来事でしかありません。しかし、イエス・キリストは確かに神の子でした。それゆえ、彼は死より復活して天に昇って行かれました。私たちは、神の子キリストの死と復活を信じる信仰によって、罪の赦しが与えられ、天の御国に永遠の住まいが備えられるのです。イエスの十字架の死は悲劇でしょうか。それとも神の栄光でしょうか。私たちはそれを生きている間に決めなければならないのです。