唯一の神を信じる信仰

「唯一の神を信じる信仰」ダニエル書3章13節~18節

 ダニエル書は、約紀元前600年にバビロニヤによってイスラエルの国が滅ぼされた時代を背景に描かれた聖書の個所です。その時、イスラエルに住む貴族、技術者の多くがバビロニヤの国に強制的に捕囚として連れてこられました。その中に、ダニエル書の中心人物、ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの四人の少年たちが含まれていました。それは彼らを教育し、バビロニヤの王に仕えさせるためでした。多くの少年の中で、特にこの四人は優秀で王に仕える者となりました。ある時、バビロニヤの王ネブカデネザルは不思議な夢を見て心を騒がせていました。しかし、誰にもこの夢の意味を解き明かすものがいませんでした。そこで、怒ったネブカデネザル王は国中の知恵者を殺すように命令を出しましたが、そこにダニエルが登場し、ネブカデネザル王の夢を見事に解き明かしたのです。王はダニエルの知恵に驚き、彼と三人の友人をバビロニヤの国で高い地位に昇進させました。

 外国人がいきなり高い地位に着くと周りの人々は妬みを覚えます。この時、ネブカデネザル王は金の像を造らせ、国中の者にこの金の像を拝むように命令を出しました。しかし、イスラエルの民にとって、手で作られた像を拝むことは偶像礼拝の罪となります。イスラエルの唯一の神を信じる彼らにとって偶像を拝むことは決してできないことです。しかし、このことが王に報告され、先ほどの三人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ(ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに強制的に付けられたバビロニヤでの名前)が王の前に引き出され、金の像を拝まなければ、火の燃える炉の中に投げ入れると脅されたのです。この時三人はネブカデネザル王にこのように答えました。ダニエル書3章17節18節「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」当時、戦争で勝利するということは、その国の神が勝利することで、戦争で負けることは、その国の神が負けることを意味していました。それゆえ、イスラエルの国が滅ぼされたことは、イスラエルの神がバビロニヤの神に負けたことを意味していました。それゆえ、勝った国は、負けた国の神殿を滅ぼし、その中にあった金銀を奪い、自分の国の神殿に納めるのが習わしとなっていたのです。バビロニヤの国もイスラエルの国を滅ぼしたとき、神殿を破壊し、多くの金銀を奪い自分たちの神殿に奉納しました。バビロニヤの王にとって、自分の信じる神々が真の神々であり、自分の国に滅ぼされた国々の神々は偽物の神々でしかありません。それなのに、イスラエルの国から連れてこられた、この三人の青年は自分の信じる神こそ本物で、ネブカデネザル王の手からですら助け出すことができると宣言したのです。(イスラエルの国民にとって自分たちの国が滅ぼされたのは、バビロニヤの神にイスラエルの国の神が負けたのではなく、自分たちの罪により神の刑罰が下ったために、国が滅ぼされたと考えていました。)これを聞いたネブカデネザル王は怒って三人を炉の中に投げ入れるように命じました。ところが、ネブカデネザル王は炉の中で三人ではなく、四人の人物を見ました。ネブカデネザル王は驚いて三人の名前を呼びました。三人が出てくると、三人は頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった、とあります。ネブカデネザル王は驚いて三人の信じるイスラエルの神を崇めたというお話です。

 今日、私たちが考えたいのは、三人の青年が宣言した「もしそうでなくても」ということばです。私たちはどうして、イエス・キリストを真の神と信じたのでしょうか。ご利益宗教という言葉があります。神様にご利益(祝福)を求める信仰です。子宝の神様というのがあります。子供ができない夫婦が子供が欲しくて神様に祈願する神社があります。また、様々な病気をいやす神社もあります。合格祈願のためにお参りする神社もあります。そのように日本人は自分の必要のために神様を選んで礼拝してきました。そう考えると、たくさん神様を信じている人こそ信心深いと考えます。しかし、本当にそうでしょうか。実はその人は自分の必要のために神様を利用しているのではないでしょうか。先ほどの三人の信仰は、私たちの信じる神様は、ネブカデネザル王の手から私たちを助ける力があることを信じています。もしそうでなくても、(自分たちが助けられなくても)私たちは、自分たちの信じる神様への信仰は捨てません。と言う意味です。私たちは神様が私たちを祝福してくださるから神と信じているわけではありません。聖書を書かれた神が唯一の神で、この世を支配しておられる真の神だからこそ、その神を神として信じているのです。

 以前、「私は天国に入りたいからイエス・キリストを信じました。」という証しを聞いたことがあります。私も初めはそうでした。イエス・キリストを神の子と信じたら救われて天国に入ることを求めました。しかし、気を付けなければならないことは、天国に入ることが目的でイエス様を信じるのであれば、イエス・キリストだけではなく、どんな神々でも天国に入れるとなれば、信じるということになりかねません。私たちは、なぜ、イエス・キリストだけを真の神と信じているのでしょうか。信仰に入った初めの頃、私もそのような思いがありました。しかし、聖書を学ぶうちの私の信仰は変わりました。今、私がイエス・キリストを神と信じているのは、天国に入るためではありません。天地を創られた真の神が、私を救うために、ご自分の大切なひとり子イエス様を十字架で犠牲にするために人としてこの世に送ってくださいました。また、イエス・キリストは何の罪も犯さなかったのに、犯罪人として、苦しみを受け十字架の上で死んでくださいました。どの国の神々に、罪人のために自分の大切な子供を犠牲にする神がいるでしょうか。どの神が、自分が無実であるのに、人を救うために自ら苦しみを受け、犯罪人の汚名を着て死ぬ神がいたでしょうか。私は、この二つの出来事のゆえにイエス・キリストを真の神と信じました。たとえ、私が病気で死のうと、貧しい生涯を終えたとしても、私の信仰は変わりません。先ほどのダニエルの三人の友人のように、たとえ病気で死のうとも、たとえ貧しく生涯を終えたとしても、先ほどの二つの出来事、イエス・キリストの誕生と十字架の上のイエス様の姿に神様の愛が変わらずに私の上にあることを信じているからです。私たちがクリスチャンになるということは、生涯、キリストと共に歩むことを宣言することです。それは、この世の結婚に似た行為です。特に女性の場合、男性の愛(求婚)に応えるという意味があります。決して財産があるからではないでしょう。この男性が生涯自分を幸せにしてくれることを信じて、結婚を受け入れるのではないでしょうか。神様と私たちの関係も同じです。決して、クリスチャンになればお金持ちになれるとかいう打算的な考えではなく、神がまず私たちを愛し、ひとり子イエス様を私たちの罪の犠牲としてくださいました。ここにこそ、私たちがキリスト者となる(キリスト教を信じる)根拠(理由)があるのです。