マタイの福音書26章59節~66節
祭司長や律法学者たちは、イエスを捕らえて殺そうと相談しますが、祭りの間(過越しの祭り)はやめておこうと相談しました。民衆はイエスを支持していたので、民衆による暴動を怖れたのです。マタイの福音書26章3節~5節「そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。彼らは、『祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない』と話していた。」とあります。しかし、実際に裁判が行われイエスが殺されたのは、過越しの祭りの時でした。それは、イエスが殺されるのが過越しの祭りの時に行われることを、神が定めておられたからです。
1、大祭司による宗教裁判(マタイの福音書26章59節~66節)
イエスが捕らえられると人々は大祭司カヤパの所に連れて来ました。そこには律法学者や長老たちが集まっていました。59節「さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。」とあります。また、60節「多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。」とあります。大祭司たちはイエスを罪に定めるために偽証人を準備していましたが、それでも、イエスを罪に定めることは出来ませんでした。祭司や長老、パリサイ人たちは、なぜ、それほどまでにしてイエスを殺そうとしたのでしょうか。それは、イエスの教えと彼の教え(ユダヤ教)が違っていたからです。また、民衆が自分たちから離れ、イエスの教えに耳を傾け始めたからです。このまま行けばユダヤ教はすたれ、人々がイエスの教えに従うようになることを怖れたのです。彼らは自分たちの教え(ユダヤ教)を守るために、無実のイエスを捕らえ、偽証によってイエスを殺そうとしたのです。人は、自分の信じる教えや宗教を守るために、不正をしてでも自分の教え(宗教)を守ろうとします。そこに人間の罪の姿を見ます。
イエスを罪に定めることが出来なかった大祭司はイエスに言いました。63節「私は生ける神によっておまえに命じる。お前は神の子キリストなのか、答えよ。」64節「イエスは彼に言われた。『あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのをみることになります。』」イエスは大祭司が言われたようにご自分が神の子であることを認めました。それを聞いた大祭司は言いました。65節66節「すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう思うか。』すると彼らは『彼は死刑に値する』と答えた。」とあります。当時、人間が自分を神と名乗ることは神を冒涜することで、死刑の判決を受けることが定まっていました。イエスはそれを知っていながら自ら本当のことを大祭司に答えたのです。しかし、イエスを神の子と信じない、大祭司と群衆はイエスが神を冒涜したと受け取り、死刑の判決を下したのです。もし、イエスが自分のことを預言者と答えたら、大祭司はイエスを罪に定めることは出来なかったでしょう。イエスはその事を知ったうえで、自らを神の子と認められたのです。
2、ローマ総督ピラトの裁判(マタイの福音書27章11節~26節)
この時、ユダヤはローマ政府に支配されていました。それゆえ、彼らは公に人を死刑にする権限を持っていませんでした。その権限があるのはユダヤの治安を守るローマ総督だけでした。それゆえ、祭司や長老たちはローマ総督ピラトのもとにイエスを連れ出し、死刑の判決を下すように要求したのです。祭司長や長老たちはイエスをピラトに訴えましたが、イエスは何も答えなかったとあります。13節「そのとき、ピラトはイエスに言った。『あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか』14節「それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。」
とあります。
ピラトは祭司長、長老たちの訴えが根拠のないものであることを知り、また、彼らが妬みからイエスを罪に定めようとしているのを知っていました。そこで、彼はイエスを助けようとしました。15節~18節「ところで、総督は祭りのたびに、群衆のために彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという名の知れた囚人が捕らえられていた。それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。『おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか』」ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。」20節「しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスを殺すよう、群衆を説得した。」とあります。21節「総督は彼らに言った。『おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。』彼らは言った。『バラバだ。』」明らかにピラトはイエスを助けようとしています。22節23節「ピラトは彼らに言った。『では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。』彼らはみな言った。『十字架につけろ』ピラトは言った。『あの人がどんな悪いことをしたのか。』しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。『十字架につけろ。』」ローマ総督ピラトにとって一番厄介なことは、暴動を起こされることです。24節~26節「ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。『この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。』すると、民はみな答えた。『その人の血は私たちや私たちの子どもの上に。』そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」とあります。ピラトはイエスが無実であることを知りながら、自分の立場と権威を守るために、イエスを罪人として祭司長たちに引き渡したのです。
イエスが受けた二との裁判を通して、私たちは何に気づくでしょうか。大祭司の裁判においてもピラトの裁判においても、イエスを罪に定めることは出来なかったということです。大祭司はイエスに対して「あなたは神の子キリストなのか答えよ。」と問いかけ、イエスはその通りと答えただけです。確かに、イエスが私たちと同じ人間であったなら、それは、神を冒涜する罪です。しかし、イエスは本当に神の子キリストでした。イエスは正直にご自身のことを証しされたのです。しかし、大祭司や群衆がそれを認めませんでした。また、ローマ総督ピラトもイエスが無実で訴えられていることを知っていました。それゆえ、彼はイエスを釈放しようとしました。しかし、ピラトは暴動を怖れ、自分の地位を守るためにイエスを死刑にするために祭司長たちに引き渡したのです。この二つの裁判を見て、イエスはご自分が助かろうとするなら、いくらでもその方法はありました。しかし、イエス・キリストは神の御心に従って、ご自分のいのちを十字架でささげることを決めておられたのです。
イエスが神の子ではなかったら、死からの復活もなく愚か者の死と言われるでしょう。しかし、イエスは神の子でした。では、なぜ、神の子イエスが人間に捕らえられ、十字架に付けられて殺されたのでしょうか。その答えは一つしかありません。それは、私たちの罪の身代わりとなるためです。それ以外の答えは考えられません。イエスの力であれば、ローマの兵隊を追い出す以上に、世界を支配することもできたでしょう。もし、イエスが自分の力を自分のために使ったとしたら、私たちの罪の問題は解決されず、すべての人は神の裁きから救われる方法はありませんでした。神はあえて、私たちの救いのために、ひとり子イエスを人としてこの世に誕生させました。イエスは無実で、逃げる道はいくらもありましたが、私たちの罪の身代わりとして、十字架の上でいのちを犠牲にされました。これがイエスの十字架の死の真実です。しかし、自分の罪の重みが分からない者には、神の子が罪人の身代わりに死ぬなど考えられないことです。自分の罪の重さを知った者だけが、神の恵みによる救いを受け取れるものです。これが、神が私たちのために備えてくださった救いの道の奥義なのです。