天の御国と王子の披露宴

マタイの福音書22章1節~14節

前回、イエスはマタイの福音書20章で「ぶどう園で働く労務者を雇う主人の姿」を通して天の御国について説明されました。その結論は、「天の御国」は人間が努力して得られるものではなく、神の賜物(恵み)プレゼントとして与えられるものであると教えられました。また、今回もイエスが「王の息子の結婚披露宴」を通して、天の御国について説明された箇所です。

1、披露宴に招待された客

 2節「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。」イエスはこのことばを通して、「天の御国」は王が自分の息子のために準備した披露宴のようなものだと言われました。その意味は、「天の御国」が喜びに満ちた素晴らしいものであることを表しています。3節「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとはしなかった。」とあります。ここで言われている「招待された客」とはユダヤ人を指します。神の救いの計画はユダヤ人を通してすべての人を救うことでした。しかし、彼らは救い主であるイエス・キリストのことばに耳を傾けませんでした。4節「それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください。」と。』」ここにユダヤ人を愛し、彼らを救おうとされる神の熱心さを見ます。しかし、彼らは神の愛を拒みました。5節6節「ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。」とあります。結局、彼らは神の愛を拒み、イエス・キリストを十字架に付けて殺してしまったのです。7節「王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。」とあります。神はユダヤ人を選び、彼らを救おう計画されました。しかし、彼らが救い主であるイエス・キリストを拒否することによって、救いの計画は異邦人に託されました。このように、たとえ神に選ばれていたとしても、神の愛を拒否する者の上には神の裁きが下るという意味です。

2、大通りで宴会に招かれた者

 8節9節「それから王はしもべたち言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』」天の御国での宴会は整っています。そこで、王は大通りに出て行って、だれでもよいから宴会に招くようにしもべたちに命じました。10節「しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。」とあります。ここに「天の御国」の大切な奥義が示されています。私たちは、「天の御国」は選ばれた者や特別な人、正しい人が招かれると考えています。しかし、このたとえ話では

「良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めた」とあります。神の御心は良い人でも悪い人(罪人)でも「天の御国」に招いておられるということです。先のぶどう園の労務者のたとえで、五時ごろに雇われた人は一時間しか働かなかったのに、一日の労働賃金一デナリを受け取りました。それは、働いた労働賃金ではなく主人の好意でした。ここから私たちが学ぶことは、「天の御国」は、正しい人悪い人にかかわらず、神はすべての人を愛し「天の御国」に招きたいと願っているということです。

3、婚礼の服を着ていない人

神はすべての者を愛し、「天の御国」に招きたいと願っておられます。しかし、ここに一人せっかく宴会に招かれたのに外に追い出された人がいます。11節「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。」12節「王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。」13節「そこで王は召使たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』」ここで問題になるのは、彼がなぜ婚礼の服を着ないで宴会に出たかということです。彼が貧しくて婚礼の服を持っていなかったからではありません。王が備えた婚礼には、婚礼にふさわしい礼服が準備されていました。それは、貧しい者や急に招かれたた人のためです。しかし、この人は、王が準備した礼服を拒んで宴会に出席したということです。それは、王の好意を拒んだということです。では、ここで言われている「礼服」とは内を指しているのでしょうか。それは「イエス・キリストご自身」または、「信仰による義」です。神は私たちを愛し、良い人でも悪い人でも「天の御国」に招いておられます。しかし、私たちが「イエス・キリストによる救い」または、「信仰による義」をまとっていなければ、「天の御国」に入ることは出来ないということです。14節「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」とあります。神はすべての人を「天の御国」に招いておられますが、すべての人が「天の御国」で暮らすことができるわけではありません。マタイの福音書7章13節14節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」と言われました。「天の御国」は狭い門であり、その道は細く見出す者はわずかだとあります。私たちは自分の正しさや正しい行いを誇り、当然「天の御国」に入れると考えています。しかし、神の義の基準は高く、一度でも罪を犯した者は「天の御国」には入ることが出来ません。そこにイエス・キリストの十字架の死と復活の意味があります。だれでも自分の義が神に認められ「天の御国」に入ることが出来るなら、神の子イエス・キリストは生まれることはなかったし、十字架で死ぬ必要もありませんでした。それほど、私たちの罪は神の前に積み上げられているということです。バプテスマのヨハネもイエス・キリストも宣教の初めに言われたことは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。「悔い改める」とは、自分の罪を認めて神に立ち返ることです。自分の罪を認めて悔い改める者の前で「天の御国」の門は開かれるのです。

天国とはどのようなところですかと聞かれることがあります。聖書は明確に天の御国について説明していません。それは、あまりにも素晴らしくて人間のことばでは表現できないからではないでしょうか。しかし、聖書の最後、ヨハネの黙示録にはこのように記されています。ヨハネの黙示録21章3節4節「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』」とあります。神がともにおられ、苦しみも悲しみもない世界それが「天の御国」です。神はそのような素晴らしい世界を私たちのために備えてくださいました。私たちは、自分のプライド(自己義)を捨て、神の下さる賜物(恵み)を素直に受け取りましょう。