ルカの福音書15章1節~10節
聖書には、羊の話や羊飼いの話がたくさん登場します。それほで、イスラエルの地では羊が大切に育てられ、身近な動物となっていました。また、旧約聖書の時代から羊飼いの仕事があり、イスラエルの人々にとって羊飼いは昔から身近な職業でした。それだけではなく、羊の性質が人間に似ているため、聖書では、羊を人間に例えたお話がたくさんあります。羊は弱い動物で、自ら他の動物を攻撃することができなません。また、羊は他の動物に比べ視力が弱く、自分で牧草地や水を飲む場所を見つけることができない動物で、羊飼いの助けが必要な動物です。また、方向感覚が悪く迷子になりやすい動物でもあります。私たち人間も牙や鋭い爪があるわけではなく、一人ではまことに弱い存在です。また、明日のこともわからない者としては、人生に迷いやすく、神の助けが必要な生き物であることは羊に似ていると言えるのではないでしょうか。
ルカの福音書15章には、失った羊を探す羊飼いの話と10枚の銀貨のうち、一枚を失い、その一枚を探す女性の話、また、有名な放蕩息子の話の三つが続けて紹介されています。イエスがこの三つの話を群衆に話されたのには理由があります。その理由とは2節に「すると、パリサイ人たち、律法学者たちが『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った。」とあります。パリサイ人たち、律法学者たちが言う「罪人」とは犯罪者を指しているわけではありません。彼らは、生活が貧しく、神の戒めを守れない人々を「罪人」と呼び、彼らと親しく交わることや、一緒に食事をすることを禁じていたのです。それなのに、イエスが貧しい人たちや取税人と親しく交わり、食事を一緒にするのを見て、イエスをとがめたのです。それゆえ、イエスは、なぜ、自分が貧しい人たちと親しく交わり、食事をするのかをこの三つのたとえを通して説明されたのです。この三つのたとえ話にはいくつかの共通点があります。最初のたとえ話では百匹の羊のうち一匹の羊を失っています。二番目のお話では、一枚の銀貨を失っています。また、放蕩息子のお話では、末の息子を失っています。また、失ったものを必死に探す姿も共通している点ではないでしょうか。百匹のうち、一匹を失った羊は、九十九匹をおいて一匹を探しに行きました。この羊飼いにとって、九十九匹も羊がいるから、一匹がいなくなってもかまわないとは思いませんでした。値段に換算すれば、九十九匹のほうが価値があるわけですが、かといって、一匹を見捨てることなく、この羊飼いにとって、この一匹は九十九匹と同じくらい大切な一匹でした。それゆえ、この羊飼いは、九十九匹をおいて、または、九十九匹を他の羊飼いに任せて、失った迷子の羊を探しに行ったのです。次に、10枚の銀貨のうち、一枚を失った女性は、必死になってその失った一枚の銀貨を探す姿が描かれています。ある本の説明では、当時の女性にとって結婚するために必要な準備として銀貨十枚が必要であったと説明されています。彼女にとって、10枚の銀貨は、将来結婚するためにコツコツと蓄えたお金ではなかったでしょうか。その一枚を失ったとすれば、どんなに彼女は必死になってそのなくした一枚の銀貨を探すでしょうか。また、放蕩息子のお話では、家を旅立った弟息子をいつ帰ってくるかと待ちわびる父親の姿が描かれています。また、もう一つの共通点として、失ったものを取り戻した時の喜びです。一匹の失った羊を見つけた羊飼いは5節6節「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」とあります。また、一枚の失った銀貨を見つけた女性は9節「見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。」とあります。また、放蕩息子のたとえ話では、父親は、ボロボロになって帰って来た末の息子のために宴会を設けました。イエスは、この三つのたとえ話を通して、なぜ、自分が貧しい人々、罪人と呼ばれる人たちと親しく交わり食事を共にするのかを説明しています。このたとえ話に登場した、「迷子の羊、一枚の銀貨、弟息子」は、律法学者パリサイ人たちが罪人呼ばわりする貧しい人々を指しています。貧しい人々は、社会から疎外され、神の戒めを守らない人々として人々から蔑まれてきました。しかし、神の目には、彼らこそ大切な民であり、神の助けを必要とする人たちです。それゆえ、イエスは彼らに近づき、彼らと交わることが、神に喜ばれることだと信じ、彼らと共に食事をしていると説明されたのです。
律法学者、パリサイ人たちは、自分の力で、神の戒めを守り、神に正しい者と認められることによって天の御国に入れると考えました。しかし、聖書は、人間の力では、神の前に誰も正しい者として立つことができないと教えています。それゆえ、神が私たちに求められておられることは、自分の力で、神の戒めを守ることではなく、自分の罪を認め、神が備えてくださったイエスの十字架の贖いを信じて天の御国に至る道です。また、イエスは同じような状況で、パリサイ人律法学者たちにこのよに言われました。マタイの福音書9章12節13節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人です。『私が喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう言いか、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」神が求めておられたのは、自分の行いが正しいと人々に自慢する人ではなく、自分の罪を認めて、神の憐れみを求める人々でした。イエスは、そのような人に近づき、友となられたのです。他の宗教では、人間が努力して、神を見出すか、悟りを開くことを求めます。しかし、キリスト教では、神が私たちを求め、探しておられ、私たちが神を信じたとき、大喜びで罪人を受け入れて下さる神です。確かにイエスはマタイの福音書5章7節8節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」と言われました。しかし、自分の罪を認めない人には、いくらイエスが近づいても、イエスの言葉を信じることはできません。自分の罪を認め、神の助けを必要とする人の近くに神は常に共にいてくださるのです。
自分のことを顧みると、私は、神を求めて教会に来たわけではありません。公園で、外国人を写真に撮っているときに、若い宣教師にゴスペルコンサートに誘われて、はじめて教会に行きました。それがきっかけで、礼拝に参加するようになり、洗礼を受けたのです。あの時、若い宣教師が声をかけて下さらなかったら、教会に行くチャンスはなかったでしょう。その宣教師を用いたのは神です。神は、あの時、人生に悩む私に近づき、迷子の私を救い出してくださったのです。私たちは、この目で神を見ることはできませんが、神は色々な人や出来事を通して、私たちに近づいてくださいます。まさに、それが神の時で、私たちにさし伸ばされた神の救いの手なのです。