孤独な者に寄り添う神

ヨハネの福音書4章7節~15節

イエス・キリストが取税人や罪人たちと一緒に食事をしているのを見て、律法学者パリサイ人たちはイエスを非難したと聖書にあります。当時のパリサイ人(ユダヤ教の指導者)たちは、取税人や罪人たちと交わることによって彼らの汚れを自分も受けると教えていました。それゆえ、彼らは自分の清さを守るために、取税人や罪人と呼ばれる人々には近づくこともしませんでした。また、人々にも、異邦人(ユダヤ人以外の民族)や取税人、罪人たちと交わらないように戒めていました。だから、イエス・キリストが取税人や罪人たちと一緒に食事をするのを見て、イエス・キリストを非難したのです。これが、ユダヤ人指導者であり律法学者であるパリサイ人とイエス・キリストの違いでした。イエス・キリストにとって、取税人や罪人(多くは貧しくて神の戒めを守れない人々)のように、社会から疎外された人々、孤独な人々こそ神の助けと慰めが必要な存在だったのです。

イエス・キリストが近づいて行かれた人々は、病人や貧しい人々、社会から疎外された孤独な人々でした。その中で、一番顕著な例がサマリアの女性との出会いではないでしょうか。ヨハネの福音書4章3節4節に「(イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」とあります。元々、サマリアとユダヤは一つの国でした。ところがソロモン王の後、国は北イスラエルと南ユダ王国に分かれてしまいました。その後、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされて外国に移住させられ、混血の民となってしまいました。これがサマリア人でした。南ユダ王国もバビロニアに滅ぼされ、多くの者が捕囚としてバビロニアに移住させられました。その70年後に、捕囚が赦され国の再建が認められました。多くのユダヤ人が国に帰り神殿を再建し国を立て直そうとしました。その時、サマリアの人々も彼らを助けたいと申し出ました。しかし、南ユダの人々は、彼らがすでに混血の民となっていたためその申し出を断りました。そこで、サマリア人は南ユダの人々が国を再建することを邪魔しました。そのような歴史的争いがあったゆえに、サマリア人とユダヤ人は仲が悪く、ユダヤ人はサマリアの町を通ることはありませんでした。イエス・キリストがガリラヤへ行く道は他にもありました。イエス・キリストはあえてサマリアのこの女性のために、サマリアの町に行かれたのです。

イエスが井戸の傍らで座っていると一人の女性が水を汲みに出てきました。6節「時はおよそ第六の時であった。」とあります。今の時間に合わせると正午ごろになります。この地方では、日中は高温となり、水をくむのは朝方でした。なのに彼女がこの時間に水を汲みに来たのは、人に出会わないためであり、彼女が問題を抱えていたことがわかります。イエスは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と言いました。すると彼女はイエスに言いました。9節「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女に水をお求めになるのですか。」10節「イエスは彼女に答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれであるのか知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」イエスは霊的なことについて話をしましたが、彼女はそれが理解できず、井戸の水の事しか頭にありませんでした。そこで、イエスはさらに彼女に言いました。13節14節「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』」15節「彼女はイエスに言った。『主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を下さい。』」彼女の心は、井戸の水の事から離れ、自分の魂のことに向かいはじめました。ここで、イエスは彼女の問題を持ち出しました。彼女は五人の人と結婚と離婚を繰り返し、今も正式な夫ではない人と生活していました。彼女はなぜ、そのように結婚と離婚を繰り返したのでしょうか。そこには、愛情飢餓、魂の飢え渇きがあったからです。彼女はその飢え渇きを男性の愛で満たそうとしましたが、満たされることはありませんでした。彼女の根本の問題を解決するのは、魂の飢え渇きを満たしてくださる方との出会いしかありませんでした。彼女は自分の過去を見抜いたイエスを預言者と認めました。そこで、彼女の心は神に向かい、神を礼拝すること、メシヤについてイエスに尋ねました。そして、イエスは自分こそ、サマリア人やユダヤ人が待ち望んでいるメシヤであることを告げたのです。彼女は驚きと喜びのゆえに、町に入ってイエスのことを伝えました。彼女の話を聞いて多くの人々がイエスの許に集まってきました。そして、イエスのことばを信じたとあります。この後、彼女の生活はどのように変わったでしょうか。聖書には書かれてありませんが、少なくとも、男性の愛を求める生活は変わったのではないかと思います。

私も同じような経験をしました。魂の飢え渇きを覚え、その魂を満たすためにお金を貯えることで心を満たそうとしました。しかし、お金がたまって行っても心は満たされませんでした。そんな時に、教会に誘われ、イエス・キリストと出会うことが出来ました。それまで、神の存在は何となく認めていましたが、その神は遠くにいて宇宙全体を見つめる存在のようなイメージで、個人的な関係はありませんでした。しかし、聖書の学びを通して、神は遠くにいて私たちを眺めるだけの方ではなく、私と共にいてくださることを知りました。また、私たちは自分で自分の体を養っているのではなく、神によって生かされていることを知り、心に初めて平安を持つことが出来ました。

お金持ちの青年がイエスの所に来て「永遠のいのち」を得るためにはどんな良いことをしたらよいのかと尋ねた場面があります。イエスは彼に言われました。マタイの福音書19章21節「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」22節「青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」とあります。神を信じるとは、神を第一とすることです。神も財産もと二人の主人に仕えることはできません。結局、この青年は財産に頼る道を選びイエス・キリストの前から去って行きました。

神は私たちの体だけではなく、心も作ってくださいました。それゆえ、私たちの心の飢え渇きを満たすことが出来るのは、異性の愛やお金ではありません。それを満たすのは神だけです。神は共にいることによって、永遠に渇くことのない、心の泉となってくださるのです。神は、神を信じる者と共におられます。私たちは神の姿をこの目で見ることはできません。しかし、神はご自身の姿を示すために、聖書のことばを与えてくださいました。私たちは聖書の言葉を通して、神の愛と神が全能であることを知ることが出来ます。また、神は遠くにおられる方ではなく、神を信じる者と共におられると約束してくださいました。人の助けや財産はこの世では役に立ちますが、死については役に立ちません。私たちは一人で生まれ、一人で死を迎えなければなりません。死を迎える私たちを誰が助けてくれるでしょうか。イエス・キリストはどんな時でも共におられると約束してくださいました。それは、天の御国でも同じです。確かに、私たちはこの地上において苦しみや悲しみがあります。パウロはローマ人の手紙8章でこのように教えています。35節「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」37節「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」38節39節「私はこう確信しています。いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」イエス・キリストは地上においても天においても共におられるお方です。また、神はイエス・キリストの十字架の死と復活によってご自身の愛を私たちに教えてくださいました。それを知る時、私たちは孤独から解放され、飢え渇いた魂がイエスの愛によって満たされるのです。