「詩篇1篇1節~6節
神が天地すべてを創造された時、罪は存在しませんでした。神は最初に造られた人アダムに対して一つだけ戒めを与えられました。創世記2章16節17節「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」しかし、アダムとエバはヘビ(サタン)に誘惑され、神の戒めを破り、善悪の木から取って食べてしまいました。その結果、二人はすぐに死ぬことはありませんでしたが、エデンの園から追い出され、神との親しい関係を失ってしまいました。エデンの園を追い出された二人に、カインとアベルが生まれました。カインは地を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。二人がそれぞれの働きから神にささげ物を捧げた時、神はアベルのささげ物には目を留められましたが、カインのささげ物には目を留められませんでした。カインはアベルに嫉妬し、彼を野に呼び出し殺してしまいました。この罪によりカインはさらに神から遠くに退けられました。その結果、カインの子孫は神から遠く離れ、自分たちの欲望を満たす世界を作り上げました。また、カインとアベルを失ったアダムとエバにセツが生まれました。セツの子孫は主の名を呼ぶ民となりました。しかし、カインの子孫とセツの子孫が交じり合い、悪が増大し、神はこの世に人を造ったことを悔やみ、心を痛められたとあります。そこで、神はこの地上を洪水で滅ぼす決心をされました。しかし、ノアだけは、正しい人で、神と共に歩んだとあります。神はノアにこの地上を洪水で滅ぼすことを告げ、箱舟を造るように命じました。雨が降り洪水となり、水が地をおおいましたが、ノアの家族八人は箱舟によって助けられました。洪水の後、神はノアの家族によって新しく世界を始めましたが、ノアの子孫たちも神から離れ、また地上に悪が増大しました。このように、人間の罪によって悪は増大されてきました。この罪の問題を解決するために人として誕生されたのが、神の子イエス・キリストです。神はイエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架の上で命を取られました。しかし、イエスは死より復活して天に昇って行かれました。神はこのイエス・キリストを神の子と信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与えると約束されました。私たちはイエス・キリストを神の子と信じる信仰によって罪赦された者となり、神との親しい関係を回復することができたのです。
詩篇の1篇には、二種類の人が記されています。「幸いな人」と「悪しき者」です。ここで「幸いな人」とは、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人」とあります。まとめて言うなら、悪い人の仲間に入らず、悪い人と行動を共にしないということです。4月に新しく学校に入学した人や、会社に就職した人もいるでしょう。そこで、どのような人と親しくなるかが大切なことです。良い仲間と出会えれば幸いな人生となりますが、悪い仲間と親しくなれば、悪の道に入ることになります。朱に交われば赤くなるとの例えもあります。どのような仲間と親しくなるかは、私たちのこれからの人生に大きな影響を与えることになります。先程のセツの子孫とカインの子孫が交わり、悪が増大したと同じことです。
また、2節を見るなら、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人。」
とあります。「昼も夜も」とは、一日中という意味です。困ったときだけではなく、一日中神を第一とする生活を行うということです。3節「その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」とあります。流れのほとりに植えられた木は、水分を十分に吸収するゆえに枯れることはありません。これは、神と共に歩む人の姿を、流れのほとりに植えられた木に例えた表現です。神に退けられたカインの子孫は、自分の知恵、力に頼り、自分の欲望を満たす世界を作り上げました。しかし、セツの子孫は神の名を呼ぶ民となりました。イエス・キリストは二人の主人に同時に仕えることはできないと言われました。富に仕えまた神に仕えることはできません。幸いな人とは神に仕える人のことです。
神が共におられるとは、苦しみや悲しみがないということではありません。創世記に登場するヨセフは、兄弟たちに捨てられ、エジプトに奴隷として売られました。しかし、神がヨセフと共におられたので、彼は奴隷の身分でも神の祝福を受けました。また、主人の奥さんに誘惑された時、彼は彼女から逃げましたが、彼女の偽りの証言によって監獄へ入れられてしまいました。しかし、監獄においても神が共におられたので、監獄の長の心にかない、監獄を管理する者になりました。また、二人の囚人献酌官と料理官の夢の意味を解き明かし、献酌官は元に地位に戻されましたが、ヨセフのことを忘れてしまいました。それから二年後、エジプトの王は不思議な夢に悩まされました。しかし誰もこの夢の意味を解き明かす者がいませんでした。この時初めて、献酌官長はヨセフのことを思い出して王に彼のことを告げ、王はヨセフを牢獄より呼び寄せて、自分の前に立たせたのです。ヨセフはエジプトの王の夢の意味を解き明かし、エジプトの王の次の位に任命されました。この後、ヨセフと兄弟たちの和解の話へと続きます。
このように、神が共におられるというのは、苦しみや悲しみがないということではありません。苦しみや悲しみの時でも神が共におられ、脱出の道を備えて下さるという意味です。その時は、神の計画によります。ヨセフの場合も、献酌官は夢を解き明かしてもらいましたが、二年間ヨセフのことを忘れていたのです。彼がヨセフのことを思い出したのは、エジプトの王パロが不思議な夢を見たためでした。そのようなことが起こったのも、神がエジプトの王に働きかけたからです。先程の「時が来ると実を結び」とは、神の時が来た時という意味です。
また、悪しき者については、裁きがある事が記されています。この地上は、永遠に続くものではなく、世の終わりがあり、すべての人は神の前に立たされ、自分の行いによって裁かれるとあります。この地上でも法を犯せば罰を受けなければなりません。世の終わりにおいても神の裁きがあります。しかし、イエスを神の子と信じる者の罪は、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦された者とされます。それゆえ、罪赦された者は、天の御国において神と永遠に暮らすことが出来ると約束されています。
聖書は、神の裁きを強調し、人々を恐れさせるために書かれたものではありません。それどころか、神の子イエス・キリストによって私たちの罪が赦され、天の御国に入ることが出来ますよ、という喜びの知らせを伝えるものです。イエス・キリストが誕生する以前は、神の戒めを守り、正しい人になることが救いの条件でした。しかし、私たちは、アダムとエバの子孫として、「原罪」を持って生まれてきてしまうために、罪のない正しい人になることはできません。それゆえ、神の子イエス・キリストが人として生まれ、十字架の上でご自分の命を犠牲にされ、死より三日目に復活することによって、救いの道が備えられたのです。私たちは、イエス・キリストを神の子と信じる信仰によって、幸いな人になることができるのです。