サムエル記第一3章19節~21節
出エジプト記は、モーセによってイスラエルの民がエジプトでの奴隷の生活から助け出され、神様がイスラエルの民に約束されたカナンの地へと旅立つお話です。レビ記、民数記、申命記はイスラエルの民の荒野での生活が描かれています。ヨシュア記はモーセに代わってイスラエルの民のリーダーとなったヨシュアがカナンの地を征服するお話です。士師記は神の約束の地でのイスラエルの民の苦難の生活が描かれています。彼らはモーセによって与えられた神との契約を忘れ、カナン人の神々を拝むようになってしまいました。その結果、神はイスラエルの民から離れられ、イスラエルの民は周りの国々に苦しめられるようになりました。苦しみの中イスラエルの民は神に助けを求めました。そして、イスラエルの民を助けるために神によって選ばれたのが士師です。彼らは神の助けによって外国の軍隊を追い出しますが、士師が亡くなると、また、カナンの神々を求めだしてしまいました。すると外国から責められ、神に助けを求め、士師によって助けられるという歴史が繰り返されて行きました。その間、イスラエルの民の信仰はますますひどくなり、士師の終わり、ルツ記の時代、サムエル記の前半は、イスラエルの国の最も暗い時代を描いています。
サムエルが生まれるまで、祭司エリがイスラエルの国の信仰のリーダーでした。しかし、彼の子らは神のことばに従わず、不信仰な行いを繰り返していました。祭司エリは自分の子をいさめることもできませんでした。サムエル記第一3章1節「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」とあります。サムエルはそんな信仰が堕落した時代に、ハンナの祈りによって生まれました。ハンナは神との約束通り、生まれた幼子を、神に仕える者とするために祭司エリに預けました。サムエルは祭司エリに育てられ、成長しました。その後、神は祭司エリにではなく、サムエルに語り掛けるようになりました。サムエル記第一3章19節~21節「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによってサムエルにご自分を現わされたのである。」神はサムエルによってイスラエルの国の信仰を立て直そうとされました。そんな時代に一つの事件が起こりました。ペリシテ人がイスラエルの国に攻めて来たのです。この戦いでイスラエルは負けて4千人が殺されました。ここでイスラエルの民は何をしたでしょうか。イスラエルの民はこの戦いで負けた理由を神が共にいてくださらなかったからだと結論しました。そこで、彼らはシロから契約の箱を運び出し、戦場に持ち込んだのです。契約の箱が戦場に着いた時、イスラエルの民は喜び大歓声をあげたとあります。そして、イスラエルの民とペリシテ人が再び戦いました。その結果、イスラエルの民が再び破れ、三万人が打たれたとあります。しかも、契約の箱はペリシテ人に奪われてしまいました。イスラエルの民はなぜ、負けたのでしょうか。当然、契約の箱イコール神ではありません。イスラエルの民は契約の箱を戦場に持ってこれば神が働いてくださり、ペリシテ人に勝利できると考えたのです。しかし、契約の箱の中に神はおられませんでした。イスラエルの民は信仰によって、契約の箱を戦場に運んだのではなく、神を利用するために、契約の箱を運んだにすぎませんでした。そこに神はおられませんでした。当然イスラエルの民は大きな被害を受けたのです。
「御ことばを聞く」と「御ことばに聴く」とは似たようなことばですが、その意味は大きな違いがあります。「御ことばを聞く」とは主体が自分にあります。しかし「御ことばに聴く」とは、主体が神のことばにあり、自分自身をそれに合わせるという意味があります。
一人の女性の証を紹介します。バブルの時代、彼女はエステサロンの仕事をしていて、月50万の収入がありました。しかし、彼女は仕事がら、毎週日曜日の礼拝が守れないことを悩無用になりました。ある礼拝の後、彼女は私に言いました。「エステの仕事を辞めて、日曜日に休める仕事を探そうと思う。」私はそれを聞いて無理だと思いました。日曜日の礼拝が守れないからと言って月50万の仕事を辞めることはできないだろうと思ったのです。その後、彼女は実際にエステの仕事を辞めました。また、彼女は経済的な余裕もあり、沖縄にあるクリスチャンのリーダーを育成する学校(半年間)に入学しました。彼女はそこで、同じビジョンを持つ男性と出会い、後に彼と結婚し、その学校のスタッフとなり、若いリーダーを育成する働きに携わっています。もし、彼女が神様の御ことばに従って行動を起こさなければ彼女の人生はどうなっていたでしょうか。神は彼女の信仰による一歩を祝福し、その後の人生を祝福し導かれたのです。日曜日に仕事をすることが悪いということではありません。それぞれの事情があるでしょう。ただ、彼女は礼拝を守りたいと思い、今仕事を辞めて新しい歩みをするべきだと聖書のことばによって決断したということです。聖書のことばは万民に対する神の言葉であるとともに、個人的に語られる言葉でもあります。サムエルは個人的に神のことばを聴いたのです。神は今も御ことばを通して私たちに語り掛けてくださいます。それが生きた神のことばという意味です。
イスラエルの民は契約の箱さえ戦場に持ってくれば、神が働いて勝利できると考えました。彼らに欠けていたことは、神のことばに聴くことでした。祭司エリは祭司でありながら神のことばに聴くことができませんでした。神は幼いサムエルを選び、彼に語り掛けました。また、サムエルも神のことばを聴く預言者として成長しました。19節「彼のことばを一つも地におとすことはなかった。」とあります。それはサムエルがいつも主のことばに耳をかたむけていたからではないでしょうか。今年1年の目標は、「神のことばに聴く」ことです。心を鎮めて御ことばに耳を傾け、自分自身の歩みに照らし合わせましょう。そうすることによって、聖書のことばが過去のことばや聖書の中だけのことばではなく、自分に対する生きた神の言葉として心に響いてきます。そこから、私は何をすべきかを神に聴き、一歩踏み出すことによって、神も私たちの道を開いてくださるのです。