悪霊を追い出すイエスの権威

マルコの福音書5章1節~20節
イエスと弟子たちが湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いたとき、汚れた霊につかれた人がイエスを迎えたとあります。汚れた霊とは、悪霊のことで、悪霊に取りつかれた人がイエスを迎えに出てきたのです。悪霊とは、人間の恐怖が生み出した、架空の存在ではありません。神が存在しておられるように、神に敵対する者として悪魔は存在し、悪霊も存在します。また、神は霊的存在ですが、悪魔も霊的存在です。そして彼らは人の心に住み、その人の人格を支配する力があります。ただ、気を付けなければならないことは、精神的な病がすべて悪霊によるものではありません。それゆえ、安易に悪霊追い出しや、悪霊払いをすることによって、病がさらに悪化することがあります。ただ、心の病にかかっている人は、心が病んでいますから悪霊に支配されやすいことは事実です。それゆえ、私たちは、悪霊の働きと心の病と分けて治療する必要があります。悪霊の主な働きは、私たちの心に神はいないと思い込ませることです。また、神を信じる者には、神に対する不信仰な思いを植え付けることです。悪霊は神によって裁かれることがすでに定められています。それゆえ、悪霊は一人でも多くの者を道ずれに、自分と同じ神の裁きに引きずり込もうと働いているのです。
イエスを迎えた悪霊の特徴は、力が強いことが強調されています。人々が彼を、鎖に繋いでもそれを引きちぎり、誰も彼を抑えることができなかったとあります。この個所を通して悪霊の力は人間の力を超えていることが分かります。また、悪霊はイエスを「いと高き神の子」と呼び掛けています。悪霊はすでに、イエスを神の子と認め、恐れていることがわかります。また、イエスが悪霊の名を尋ねると「レギオンです」と答えています。レギオンとは軍隊の一つのまとまった数を表し、その人数は、四千人から六千人を表すと言われています。ここで、悪霊は自分の名を言わずに、自分たちが大勢いることをイエスに伝えたものと考えられます。それゆえ、この後、悪霊たちは豚の中に入ることを許されますが、これにより二千匹の豚が崖から湖になだれ込んだと記されています。ここで疑問に思うことは、悪霊がイエスに自分をこの地方から追い出さないようにお願いし、豚の中に送ってくださいと懇願すると、イエスがそれを許されたことです。なぜ、イエスは悪霊の願いを許可されたのでしょうか。その結果、豚の群れ二千匹が崖から湖に飛び込み、この村の人々に損害を与え、村の人々がイエスを恐れ、この村から出て行ってほしいと懇願する状況を作ってしまいました。なんだか、イエスが悪霊に騙され、村を追い出されたような状況に見えます。イエスはこのような状況になることを考えなかったのでしょうか。また、悪霊たちはイエスをだまし、まんまとイエスをこの村から追い出すことに成功したのでしょうか。色々な解釈はありますが、どれが正解かはわかりません。ただ、一つここで注目したいことは、イエスが悪霊を追い出された人をこの村に残したことです。悪霊を追い出された人は、イエスのお供をしたいと申し出ましたが、イエスは彼に言われました。19節「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」イエスは彼に、神がどれほど大きな御業をされたのか証のために残されたということです。イエスの目的はここにあったのではないでしょうか。悪霊を追い出された人をここに残すことによって、自分の代わりに、この地方に神の御業を宣べ伝えさせること。現に、彼はデカポリス地方に言い広めたとあります。イエスが直接、伝道しなくても、彼によって神の御業が宣べ伝えられることを信じて、この地方の伝道の働きを彼に委ねたように思えます。
この出来事から、私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか。宣教という働きはイエスによって救われた、私たちに委ねられているということです。イエスは復活して弟子たちに言われました。マタイの福音書28章19節20節「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名によって彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マルコの福音書では、悪霊を追い出された人にイエスはこのように言われました。5章19節「主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」証しとは、神が私に対してどんな大きな御業をしてくださったかを伝えることです。イエスと出会う前、私たちはどんな生活をしていたでしょうか。マタイの福音書を書いたマタイは、以前は取税人という仕事をしていました。取税人は、ユダヤ人からローマ政府のために税金を集める仕事で、取税人はユダヤ人から大変嫌われていました。マタイがどうしてこの仕事を選んだのかはわかりません。取税人はお金が儲かるので、金目当てにこの仕事を選んだのかもしれません。しかし、実際にお金は儲けましたが、誰も自分に挨拶もしてくれない、話しかけてもくれないような孤独な生活に悩んでいたのではないでしょうか。そんな時に、マタイはイエス・キリストに「わたしについて来なさい。」と言われ、取税人の仕事を捨てて、イエスの弟子となったのです。その彼が一番最初にしたことは、同じ取税人の仲間を招いて、宴会を開き、自分の仲間にイエスを紹介したことでした。マタイは、自分と同じ取税人の仲間たちにイエスを紹介したかったのでしょう。これが、伝道するということです。私たちの救いの喜びを親しい人々に伝えることが伝道です。私たちはどのような時にイエスに出会ったでしょうか。
私が東京に出てきたのはお金持ちになるためでした。東京でお金をためて、自分のお店なり、事業を起こしたいと思っていました。お金持ちになることが幸せになることだと思っていました。先ほどのマタイと同じかもしれません。それゆえ、お金を貯めることに喜びを感じていました。しかし、3年から4年、自分なりの目標を立てて働いていましたが、心の中に疑問が生まれてきました。本当にお金持ちになることが幸せなことだろうか。お金持ちが、自殺したり、社会的な問題を起こすのを見て、幸せとは何か疑問に感じるようになりました。そんなときに、教会に誘われ、初めは神の存在が分かりませんでしたが、教会に通ううちに、神の存在を信じ、神は遠くにいるお方ではなく、私たちの近くにおられ、私たちと共に歩んでくださるお方であることを知りました。今まで、自分の力で働き、自分の力でお金をもけなければならないと考えていましたが、実は、そうではなく、自分が神によって生かされている存在であることを知って、何か、心が軽くなる思いでした。今まで、自分の人生は自分の力で生きていかなければならないと信じていましたが、神が私を愛し、共に人生を歩みたいと願っていることを知り、神にすべてをお任せする決心をしました。初めは、目に見えない神様を信じることに抵抗がありましたが、聖書を読むうちに、次第に、神様の存在がはっきりとしてきました。洗礼を受けて、37年たちますが、一度も後悔したことはありません。神様を知れば知るほど、神様の愛が迫り、神が共におられることの恵みを感じています。救われるとは、暗闇から光の世界へと移されることです。以前は、死んだ後、どうなるのか不安がありましたが、今は、すでに天の御国に住まいが備えられていることを信じています。救われるとはそれほど素晴らしい出来事なのです。