ヨナ書4章1節~11節
預言者ヨナのお話は日曜学校のこどもたちに人気のあるお話です。話す方もヨナが魚に飲み込まれる場面などがあり、こどもたちに話しやすい内容となっています。しかし、このヨナの物語はそれほど単純な内容ではありません。現代の私たちにも考えさせる深い意味を含んだ聖書のことばです。今日はヨナの人物像について、また神と人との関係について学びます。
ヨナは紀元前780年代、ヤロブアム二世の時代に北イスラエルの国で活躍した預言者です。この時代、北のアッシリアの力が弱くなり、国は安定し繫栄していました。神はこの状況でヨナにニネベに行き、神のことばを伝えるように命じたのです。ニネベの町はアッシリアの首都で、イスラエルの国にとっては対立する国の首都です。ヨナに与えられた神のことばとは3章4節「あと四十日すると、ニネベは滅びる」という神の裁きのことばでした。しかし、ヨナは主の御顔を避けて、タルシシュへ逃れようと船に乗り船出しました。ところが神が暴風を起し船が沈みそうになりました。船の上では誰のせいで船が沈みそうになったのかを知ろうとして皆でくじを引きました。するとヨナに当たりました。ヨナは神から逃れていることを打ち明け、自分を海に投げ込めば波は静かになると言いました。そこで、人々はヨナを海に投げ込みました。神はヨナのために大きな魚を備え、ヨナはその魚に飲み込まれました。ヨナは魚の中で悔い改めました。そして、神はヨナを三日目にニネベの町に吐き出させたのです。
そこでヨナはニネベの人たちに神のことば(神の裁き)について宣べ伝えました。すると3章5節「ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。」とあります。王様も王服を脱ぎ粗布をまとって、神より赦しが与えられるように断食して願うように国民に命じました。10節「神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。」とあります。これを見てヨナは喜んだでしょうか。4章1節~3節「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、主に祈った。『ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。』」ここにヨナが初めに神の命令から逃げた理由が語られています。アッシリアはイスラエルの国にとって脅威となる国でした。イスラエルの国を愛するヨナにとって、ニネベは神の裁きによって滅ぼされるべき町でした。もし、自分がニネベに行って、神のことばを伝え、彼らが悔い改めニネベの町に神の裁きが下らなかったとしたら、イスラエルの国は依然としてアッシリアの国を恐れなければなりません。ヨナはイスラエルのために神のことばに背き逃げ出したのです。5節「ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。」とあります。ヨナが魚の中で悔い改めたのは神のことばに従わなかったことについてでした。ヨナの気持ち、イスラエルのためにニネベの町は滅ぶべきだという考えは変わっていなかったのです。6節「神である主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。」とあります。7節「しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。」8節「太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照り付けたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』」すると神はヨナに言われました。9節~11節「『この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。』ヨナは言った。『私が死ぬほど怒るのは当然のことです。』主は言われた。『あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて、一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。』」旧約聖書はアブラハム以降アブラハムの子孫イスラエルの民を中心に描かれています。彼らは、自分たちがアブラハムの子孫であり、神との契約の民であることを誇りとしていました。また、他の民族を異邦人と呼び、彼らと交わることを避けるようになりました。そのような選民意識の強い国民に対して、彼らの間違いを指摘したのがヨナ書です。本来、神は天地の創り主であり、全世界の神です。その神はイスラエルの民だけを愛するのではなく、たとえ罪深い民であっても愛しておられます。イスラエルの民はそれを忘れ、自分たちの国の繁栄しか考えない国民になってしまいました。神がヨナを通して、神が異邦人をもイスラエルの民と等しく愛していることを伝えたのがヨナ書です。ヨナ書は、中途半端なことばで終わっています。それはイスラエルの民に考えさせるためです。神はすべての者の創り主であり、すべての人を愛しています。イスラエルの民はその事に気づかなければなりませんでした。しかし、彼らは気づこうとはせず、さらに民族意識を強くしていったのです。
愛国心を持つことは悪いことではありません。自分の国を愛し同国民を愛することは自然なことです。しかし、ヨナは神のことば(神の思い)よりも自国を愛し、そこに彼の問題がありました。イエス・キリストは、二人の主人に同時に仕えることはできないと言われました。それは、一方を重んじ、一方を軽んじるからです。ヨナは神の思いよりもイスラエルの国を愛しているがゆえに、神のことばを避けてタルシシュへ逃げだしたのです。私たちも神を信じていても、目に見える物を神よりも尊んでしまうことはないでしょうか。アブラハムが100歳、サラが90歳の時にイサクが生まれました。それは神の計画であり恵みでした。神は創世記の22章でアブラハムにイサクを全焼の生贄としてささげるように命じました。神はなぜ、せっかくアブラハムの子孫となるようにイサクを与えたのに、そのイサクを全焼の生贄としてささげるように命じたのでしょうか。聖書には書かれていませんが、アブラハムは神から与えられたイサクを大切に育てたと考えられます。アブラハムにとってイサクは神より与えられた約束の子であり大切な存在です。しかし、その思いが強すぎて、アブラハムはしだいに神よりもイサクの方を大切に思うようになったのです。それゆえ、神はそれに気づかせるために、アブラハムにイサクを全焼の生贄としてささげるように命じたのです。アブラハムは自分の間違いに気づき、イサクを連れて神が示す地へと出かけました。アブラハムがイサクを全焼の生贄としてささげようとしたとき、主の使いがアブラハムの名を呼び言われました。創世記22章12節「御使いは言われた。『その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。』」とあります。神はイサクの代わりに一匹の雄羊を備えておられ、アブラハムはその雄羊をイサクの代わりに全焼の生贄としてささげました。
私たちも知らないうちに神よりも大切にしているものはないでしょうか。聖書で教える偶像礼拝の罪とは、異教の神々を礼拝することだけではありません。私たちが神よりも大切にするものがあるならば、それが偶像礼拝になるのです。家族を愛すること、仕事を愛することは悪いことではありません。しかし、神よりも家族を優先すること、仕事を優先することは偶像礼拝になってしまいます。ヨナは知らず知らずのうち、神のことばよりも国を守ることを優先してしまいました。ヨナに悪意はありません。純粋にイスラエルの民を愛するがゆえに、神のことばを伝えるよりも、イスラエルの将来のことを考えて神のことばから逃げ出したのです。しかしそれは、預言者としては失格です。
私たちは、神と出会う前は目に見える物を愛し、目に見える物に頼る生活を過ごしてきました。しかし、今は、神に生かされていることを知りました。それでもなお、弱い私たちは、目に見える財産や家族を神よりも大切にしていることはないでしょうか。神はヨナを見捨てることなく、彼にそのことを教えるために嵐を起し、大きな魚を備え、唐胡麻さえも備え、御心をヨナに伝えようとされたのです。そこに、私たちに対する神の変わらない愛を見ることが出来るのです。