救い主の誕生の知らせを受けた人々

「救い主の誕生の知らせを受けた人々」マタイの福音書2章1節~12節

アドベントの第1週11月27日では、クリスマスの意味、なぜ、神の子イエス様が人として生まれなければならなかったのか、その理由と救い主が生まれるという神様の計画が、アダムとエバが罪を犯した後、すぐに計画されたこと。また、私たちが救いの計画を理解できるように神様は長い時間をかけてその準備をされたことを学びました。アドベントの第2週12月6日は、神様がなぜ、救い主の父と母として、ヨセフとマリヤを選ばれたのか、二人の信仰について学びました。今日は、救い主の誕生を告げられた、東方の博士たちと羊飼いたちについて学びます。

1、 東方の博士たち。

神様はなぜ、神の子イエス様の誕生を、ユダヤ教の指導者(祭司たち)ではなく、ユダヤ人ではない東方の博士たちに知らせたのでしょうか。この東方の博士たちはバビロニヤ地方から来たと考えられています。イエス様が生まれる約500年前、南ユダ王国はバビロニヤによって滅ぼされ、貴族や技術者など多くのユダヤ人がバビロニヤの国に奴隷として連れていかれました。彼らによって、イスラエルの文化、宗教、技術がバビロニヤの国に伝えられたものと思われます。東方の博士たちとは占い師のことで、星の動きを見て、自然災害や世界の動きを予測して当時の王様に仕える者たちでした。彼らは、東方に輝く不思議な星を見て、ユダヤの国に新しい王が誕生したと考え、実際に新しい王が誕生したのかを確かめるために、ユダヤの国まで旅に出たのです。当時のユダヤの国はローマによって支配されていました。ここに登場するヘロデ王は、ローマ政府によって任命された王で、ユダヤ人が認める本当の王様ではありません。ヘロデ王はユダヤの国を治める行政官で、問題があればすぐに変えられる不安定な王でした。それゆえ、ヘロデ王は、東方の博士たちの「ユダヤ人の王の誕生」の知らせを受けて、恐れ惑ったのです。問題なのは、ヘロデ王に呼び出された祭司長、律法学者たちです。彼らはヘロデ王に救い主がどこで生まれるのかを聞かれて、すぐに、ユダヤのベツレヘムですと答えました。彼らは、旧約聖書ミカ書を通して救い主がベツレヘムで生まれることを知っていたのです。しかし、彼らは救い主の誕生の話を聞いても、喜びもせず、探しにも行きませんでした。結局、救い主を見つけ出し、幼子を拝んだのは東方の博士たちだけでした。なぜ、祭司たちは神様に仕える者なのに救い主の誕生を喜び、救い主を探しに行かなかったのでしょうか。当時、ローマ政府はユダヤ人に宗教の自由を与えていました。それゆえ、彼らは自由にイスラエルの神を礼拝することができました。それどころか、ローマ政府はユダヤの国を自分たちの思い通りに支配するために、祭司を優遇し彼らを通してユダヤの国を治めていたのです。当時の祭司たちは形だけは神様に仕えていましたが、生活は贅沢な暮らしに慣れ、救い主の誕生など興味がなかったのです。それゆえ、彼らは救い主の誕生の知らせを聞いても喜びもせず、救い主を探しにも行かなかったのです。実は、そのような状況だったから、救い主の誕生という喜びの知らせを、神様は祭司たちに伝えなかったのです。

2、 羊飼いたち。

ルカの福音書2章8節から、御使いを通して、救い主の誕生が羊飼いたちに伝えられる場面が描かれています。彼らは御使いの話が本当か、幼子イエス様を探しに行き、飼葉桶に寝ておられる幼子を見つけました。そして、彼らが救い主の誕生という喜びの知らせを人々に知らせたのです。当時の羊飼いという仕事は貧しく、神様の定めた安息日の戒めを守ることができませんでした。それゆえ、祭司や律法学者たちは、彼らを非難し、神に呪われた民、救いの約束から外れた者たちと蔑んでいたのです。しかし、神様の目は違いました。確かに、彼らは貧しさのゆえに安息日の戒めは守れなくても、神様への信仰はしっかりと持っていたのです。ところが、祭司たちや律法学者たちは、反対に、自分たちは立派に神様の戒めを守るものとして人々に自分の信仰を誇っていたのです。神様は彼らが自分を誇るための信仰で神様を必要としていないことを見抜いておられました。それゆえ、神様は祭司や律法学者たちではなく、貧しくても神様に望みを置く羊飼いたちに、救い主が生まれたという喜びの知らせを伝えたのです。

私の育った環境には、一切キリスト教と関係するものはありませんでした。東京に出てきて初めて宣教師に伝道され教会に来ました。教会にきて三か月で洗礼を受けるという異例の早さでした。しかし、実は、神様を求める思いとは、中学生の時からありました。自分はなぜ生まれたのか。何のために生まれたのか。生きるとはどういうことか。人は死んだらどうなるのか。そのような疑問が中学生のころからありましたが、誰も、この問題に答えてくれる者がいませんでした。私は、社会に出てからも心の隅にこの疑問を持ち続けていたのです。それが、教会に来て聖書を読むことによって、この疑問に対する答えを見つけました。自分は偶然に生まれたのではなく、神によって命が与えられたこと。神の中に自分の人生の目的があることを知ったとき、私の人生は180度、変わりました。以前は、神は自分にとって遠い存在でしたが、教会に来て神様は自分を愛し共に人生を歩む方であるのを知ったのです。

東方の博士たちも、羊飼いたちもユダヤ教の考えからすれば、神様から遠く離れた存在、救われない人々でした。しかし、神様の目は違いました。神様の目は、自分の信仰を誇る形式主義の祭司や律法学者たちではなく、本当に神様を必要とする人々に向けられていたのです。私たちは神様を必要とする者でしょうか。また、神様の助けを必要とするものでしょうか。求めなさいそうすれば与えられますというイエス様の有名な言葉があります。私たちが真剣に神様を求めるなら、神様は必ず私たちに応えてくださいます。また、私たちが神様に歩む道を求めるなら、必ず応えてくださいます。なぜなら、神様は、私たち一人一人を愛し私たちと共に人生を歩きたいと思っておられるからです。