マタイの福音書2章1節~12節
マタイはユダヤ人にイエス・キリストが救い主であることを伝えるためにマタイの福音書を書きました。それなのに、なぜ、マタイはイエスの誕生を祝うために外国人である東方の博士たちがエルサレムを訪問したことを書いたのでしょうか。また、神は何故、メシヤ(救い主)の誕生を祭司たちではなく、外国人の博士たちに知らせたのでしょうか。今日の有名な場面から、東方の博士たちとヘロデ王、祭司長たちについて学びます。
1、東方の博士たち
昔からこの東方の博士たちはどの国から来たのか、議論されてきましたが、聖書には場所を特定するような言葉が記されていないので、確かなことを言うことはできません。ただ、南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされた後、イスラエルの貴族や多くの技術者などがバビロニアの国に捕囚として強制的に移住させられたことがありました。その70年後に国に帰り、国を再建することを許されましたが、バビロニアに残った者も多くいました。そのようなことを考えると、この博士たちは、イスラエルの民に伝えられた旧約聖書を通して、ユダヤの国に偉大な王が誕生するとの情報を得ていたのではないかと思われます。また、博士と呼ばれていても、当時の博士と呼ばれる人々は多くが占いによって天候や天災、戦争などを占う占い師のような存在でした。ここに登場する博士たちも、星の動きを観察して天災や戦争を占う占い師であった可能性が高いと言えます。しかし、この博士たちが砂漠を乗り越えて、はるばるエルサレムまで危険を顧みず、新しく生まれたユダヤ人の王を求めて旅立ったのです
2、ヘロデ王について
ヘロデ王はユダヤ人でなくイドマヤ人(エドム人)でエサウの子孫と言われています。彼はローマ政府に取り入り、ローマ政府の後ろ盾を得てユダヤの王に任命された王様です。それゆえ、ユダヤ人たちは彼がイドマヤ人であることで、ヘロデ王を尊敬しませんでした。そこで、ヘロデはユダヤ人の好意を得るために第三神殿(ヘロデの神殿)を50年の歳月をかけて建てたと言われています。そのこともあって祭司たちとヘロデ王の関係は良好であったと考えられます。東方の博士たちがエルサレムに到着した後、ヘロデ王に謁見し2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」と尋ねました。3節「これを聞いてヘロデ王は動揺した。」とあります。ヘロデは自分の実力で王になった者ではありません。それゆえ、自分の知らないところで新しい王が誕生したということに非常な恐れを感じたのではないかと思います。4節「王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」とあります。ここでヘロデ王が集めた祭司長たちと律法学者たちは、ユダヤ人最高議会(サンヘドリン)のメンバーではないかと思われます。彼らは、サドカイ派とパリサイ派の代表者たちでした。
3、祭司長たちと律法学者たちについて
ローマ政府は宗教に寛容な政策を行い、その国の宗教を容認していました。それゆえ、この時、ユダヤ教に対して迫害はありませんでした。さらに、ユダヤの国は自治権が認められ、ユダヤ人によって選ばれた議員によって国が運営されていました。その最高議会がサンヘドリンと呼ばれ、サドカイ派とパリサイ派に分かれていました。パリサイ派は律法に熱心で反ローマの態度を示していました。サドカイ派は祭司階級の集まりで、ローマ政府はサドカイ派を金銭的に優遇し彼らを支持することによって彼らを取りこみ、パリサイ派を牽制していたのです。祭司長、律法学者たちはヘロデ王にキリストはどこで生まれるのかと聞かれ、旧約聖書のことばからヘロデ王にこのように答えました。5節6節「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。」この言葉は旧約聖書のミカ書のことばです。
7節8節「そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。そして、『行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから』と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。」とあります。ヘロデは初めから幼子を殺す計画でした。博士たちは星に導かれ、幼子を見つけ出しひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたとあります。また、夢でヘロデのところに戻らないように警告されたので、別の道を通って自分の国に帰りました。ここで不思議に思うのは、祭司長や律法学者たちは何故、東方の博士たちと共に幼子を捜しに行かなかったのでしょうか。東方の博士たちがユダヤ人の王の誕生を知り、幼子を求めて遠くから来たことは彼らも知っていたと思います。ここに神が幼子の誕生を祭司長たちではなく、異邦人の東方の博士たちに伝えた理由がありました。先ほどもお話しましたように、祭司たちの生活は守られ豊かでした。彼らは救い主を必要としていなかったのです。律法学者たちはメシヤ(救い主)を待ち望んでいましたが、彼らが待ち望んだ救い主は、ローマの軍隊をユダヤから追い出し、ユダヤの国の独立を目指す救い主でした。しかし、神が遣わされた救い主(幼子)は、罪から救う救い主でした。ここに彼らが求める救い主と神が遣わされた救い主との大きな違いがあったのです。また、後にこの祭司長、律法学者たちがイエスをとらえ十字架に付けて殺してしまったのです。
私たちはどれほど真剣に神を求めているでしょうか。マタイの福音書5章3節に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」とあります。「心の貧しい者」とは、心が空っぽの者、この世のもので心が満たされない者のことだと教わりました。私たちがこの世の物(財産、名誉、愛情)で満たされているとき、人は神を求める気持ちがありません。しかし、この世のもので満たされない気持ち、飢え乾きがある人は、熱心に神のことばに耳を傾けます。その人こそ、救いを自分のものとし、天の御国を自分の者とする人です。クリスチャンであっても、時間がたつにつれて、なれや、現状に満足してしまうことがあります。日本において、普通の人は神の助けなしに暮らしていくことができます。聖書を読まなくても、お祈りしなくても、救いを失うことはありません。しかし、神との関係はどうでしょうか。私たちはどれぐらい近く神のそばにいるでしょうか。詩編の1編3節に
「その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」とあります。私たちは何を求め、何を第一としているでしょうか。東方の博士たちは仕事を捨て、危険を冒して、幼子を捜し出し、彼らの持っている宝を幼子にささげました。神はそのような人を求めているのではないでしょうか。私たちは、東方の博士たちでしょうか、また、ヘロデ王でしょうか、祭司たちでしょうか。クリスマスを迎える前に私たちの心の中を整えたいと思います。