暗闇の中の光(希望)

「暗闇の中の光(希望)」出エジプト記1章8節~14節

 悲惨な事件や事故が起きると、私たちは、神様がいるならどうしてこんな事件、事故が起こるのかと神様の存在を疑いたくなります。確かに神様は存在しておられますが、また、神様に敵対する悪魔がいることも事実です。旧約聖書のヨブ記を見ると、ヨブが家族、財産、健康を失ったのは、悪魔が神様の考えに異議を申し立てたからです。神様はヨブを正しい者と認めていました。しかし、悪魔はヨブが正しく生きているのは、神様がヨブを祝福しているからで、ヨブから財産や家族を奪うなら、ヨブだって神様に恨み言を言うに決まっていますと、ヨブの信仰は利益信仰だと神様に訴えたのです。そこで、神様はヨブの潔白を証明するために、悪魔の手にヨブを任せ、ヨブは苦しみの中に置かれてしまったのです。しかし、ヨブは財産を失い、家族を失っても神様への信仰を失うことはありませんでした。ヨブの信仰を通して神様が正しいことが証明されたのです。

 悪魔はそれでも引き下がりませんでした。家族や財産だけではなく、命を失うような苦しみを受けたなら、いくらヨブでも神様に恨み言を言うでしょうと、あくまでも自分の主張が正しいと神様の前で言い張りました。そこで、神様はヨブの命には触れないことを約束に、ヨブを悪魔の手に任せました。ヨブは全身腫物のために苦しみますが、それでも神様への恨み言は一言も口にしませんでした。そのことを通して、ヨブに関して、神様の考えが正しく、悪魔の考えが間違っていたことが証明されたのです。しかし、神様はご自分の考えが正しいことを証明するためにヨブを苦しめたのでしょうか。この後、ヨブの友人たちがヨブを励ますためにヨブを訪問しますが、ここで、ヨブと友人たちの間に、罪と神の赦しについて、議論が始まります。ヨブはこの友人たちとの議論によって、自分の信仰に付いて深く考えていきます。今まで漠然と神様を礼拝してきたヨブが、この苦しみを通して、自分と神様との関係について考え、ヨブの信仰は深められ、最後は、ヨブと神様が直接出会うことによって、ヨブの信仰はさらに深められていったのです。神様が悪魔の手にヨブを委ねたのは、その目的のためでした。悪魔はヨブを滅ぼし、神様が間違っていることを証明しようとしましたが、神様はそれを利用し、ヨブの信仰を深めるために悪魔を利用されたのです。

 悪魔について、聖書は、いつから存在しているのか、何の目的で悪魔が存在しているのかその理由は書かれていません。しかし、悪魔は確かに存在し、神様の支配の下にいることは確かです。それゆえ、ヨブを苦しめることさえ、神様の許しなくしてできないことがヨブ記を通して教えられます。また、神様はご自分の計画を完成させるために悪魔を利用することも事実です。北イスラエルの国を滅ぼしたのはアッシリアで、南ユダ王国を滅ぼしたのはバビロニヤです。どちらの国も、偶像を拝む国々で、他の国々を滅ぼす残虐な国でした。神様は、イスラエルの国の偶像礼拝を止めさせるために、残虐な国、アッシリアとバビロニヤの国を利用されたのです。しかし、神様のご計画はイスラエルの国を亡ぼすことではなく、偶像礼拝を止めさせ、新たな信仰に成長させるためでした。この後、イスラエルの民は神殿礼拝から、会堂の礼拝へと変えられていきます。彼らは、動物を犠牲にする礼拝から、神様の御言葉を学ぶ礼拝へと変えられたのです。神様がイスラエルの国を一度、滅ぼされたのはその目的のためだったのです。

 出エジプト記1章8節で「ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。」とあります。ヨセフは兄弟たちに売られてエジプトの地で奴隷として働いていましたが、エジプトの王の見た夢を解き明かし、エジプトの総理大臣の地位に任命されました。そして、来るべき飢饉に備えさせ、多くの人の命を助けました。ヨセフはエジプト人を救った恩人です。そして、その時、ヨセフは自分の家族をエジプトに呼び寄せました。その人数は70人でした。それから、ヨセフが亡くなり、ヨセフのことを知らない王が誕生しました。この期間をおおよそ計算すると100年の歳月が流れました。この100年の間に、イスラエルの民は増え続け、大きな民族となり、エジプトの王を恐れさせる力となっていたのです。そこで、エジプトの王は、イスラエルの民を奴隷として酷使し激しい迫害で苦しめました。また、イスラエルの民の人口を抑えるために、生まれた男の子はナイル川に投げ捨てるように命じました。モーセが生まれたのは、そのようなイスラエルへの迫害がひどい状況のときでした。その後、80年して、モーセが神様の助を得て、イスラエルの民をエジプトから助け出し、神様の祝福の地カナン目指して旅立ちました。イスラエルの苦しみは100年以上続きました。もし、エジプトでの迫害が無ければ、イスラエルの民は、エジプトから出ることができたでしょうか。彼らはエジプトという豊かな国で、幸いな生活を望んだのではないでしょうか。神様がイスラエルの民をエジプトに住まわせたのは、アブラハムの家族を増やし、大きな国民に育て上げるためでした。神様のご計画は、あくまでも、アブラハムに約束したカナンの地でした。そのために、神様はエジプトの国を利用し、彼らからの迫害をも利用されたのです。

 私たちが聖書から教えられることは、神様は唯一で、全てを支配されておられるということです。それは、悪魔さえ神様の支配の下に位置するということです。であるならば、全ての悲しみ、苦しみも、神様はすべてをご存じで私たちに与えられているということです。ですから、そこから結論として私たちが学ぶことは、すべての苦しみには意味があるということです。それゆえ、ローマ8章28節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という言葉と、コリント人への第一の手紙10章13節「あなたがたの会った試練はみなの人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会せるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」という聖書のことばは真実なことばです。また、ヨブが苦しみを通して理解できたように、私たちも、神様が私たちから離れ、遠くにおられるお方ではなく、私たちと共におられ、私たちの苦しみと悲しみを知っておられることを知るなら、もう、すでに私たちは、悲しんだり、恐れたりする必要はありません。夜はいつか朝になり、トンネルには出口が備えられているからです。苦しみや悲しみもいつまでも続くものではなく、苦しみから助けられる時、悲しみが慰められる時が備えられているからです。