永遠のいのちを得る者

ヨハネの福音書17章1節~3節

10月2日(土)に、小川喜止男先生の葬儀の後、一人の婦人が近づいて来られ、「今日の先生のお話ありがとうございました。息子たちも普段は教会には言っていませんが、先生の今日のお話が大変良かったと言ってました。」とお褒めの言葉を頂きました。普段、私たちは死について話しをすることを縁起が悪いと考え、真剣に死について話し合うことはありません。また、自分の死についても普通の人はまじかな問題として考えないのではないかと思います。しかし、葬儀の時などは、死について真剣に考えさせられる時ではないかと思います。そういう意味では、今日の召天者記念礼拝も、すでに天に召された方々の事だけではなく、自分のいのちについても考える大切な時ではないかと思います。

新約聖書には、「永遠のいのち」という言葉が何か所か登場します。聖書で言う「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に暮らすことではありません。また、死んだ後に天国で永遠に暮らすという意味でもありません。聖書で使われる「永遠のいのち」とは、永遠なるイエスキリストと交わる、一つとなることを意味しています。ヨハネの福音書17章3節「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」とあります。神が天と地を創造された時、罪も死もありませんでした。神は最初の人アダムに、エデンの園にある木の実は思い通りにどれでも食べて良いと言ってくださいました。しかし、善悪の知識の木の実を取って食べる時あなたは死ぬと言われました。しかし、アダムとエバは蛇(サタン)に誘惑されて、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。しかし、その時、二人は死にませんでしたが、二人はエデンの園から追い出されてしまいました。神は二人を追い出された後、創世記3章24節「こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケリビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。」とあります。「いのちの木」については、22節に、このように説明されています。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」このことばからもわかるように「いのちの木」とは、それを食べると永遠のいのちを得ることができる木であることが説明されています。神は、人がこのいのちの木から取って食べ、永遠のいのちを得ることがないように、エデンの園の入り口にケリビムと炎の剣を置かれたのです。

人間は罪を犯し、神と親しく交わる特権を失ってしまいました。私たちが、この永遠のいのちを自分のものとするためには、罪の問題を解決しなければなりません。旧約聖書の時代、神は、罪を犯した人間のいのちの代わりに、牛や羊のいのちと血を要求されました。イスラエルの民は、自分が犯した罪が赦されるために、祭壇に動物の血を流し、その体を火で焼くように命じられました。しかし、動物の血といのちでは、人間の罪の身代わりにはなりませんでした。そこで、神は、ご自身のひとり子イエス・キリストを人としてこの地上に遣わし、私たちの罪の身代わりとして十字架の上でいのちを取られたのです。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに、死より三日目によみがえり、天の父のもとへ昇って行かれました。神は、このイエス・キリストを神の子と信じ、イエス・キリストの死が自分の死の身代わりの死であることを信じる者の罪は赦すと約束してくださいました。

私たちは、死んで無くなる者ではありません。肉体は、確かに火で焼かれ、灰なります。しかし、魂は神のもとに引き上げられ、最後の審判を待つことになります。罪を犯した者は、その罪に従って神の裁きを受け、イエス・キリストによって罪赦された者は、永遠の御国に招かれるこれが聖書の教えです。

最後に、聖書に書かれた二つの場面を読んで終わります。

1、ルカの福音書12章16節~21節

「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分の魂にこう言おう。『わがたましよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこの通りです。」

2、ルカの福音書23章39節~43節

「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ、だがこの方は、悪いことを何もしていない。』そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」(パラダイスとは天国のようなところ、神の国を表しています)

一生懸命働くことが悪いことではありません。しかし、私たちは、この世の者だけではありません。すべての人は、いつか、自分の死を迎えます。私たちはそのために何をするのかと言うことです。最初のお金持ちは、この世の事しか頭にありませんでした。それゆえ、食べ物をたくさん蓄え、これから、楽しく暮らせると考えていました。しかし、彼は、自分の死のためには何も準備ができていませんでした。彼は、神に愚か者と言われて、死を迎えることしかできませんでした。しかし、もう一人の、十字架に付けられた犯罪人は、自分の最後の時、イエス・キリストに、天の御国に迎えてくださいとお願いしました。そして、イエスは、彼の願いを聞き届け、彼に、パラダイス、天の御国に迎えられると約束してくださったのです。私たちは自分の死について、どのように備えるべきでしょうか。私たちはこの地上で生きている間に、その答えを見出さなければならないのです。