父なる神の愛

へブル人への手紙12章5節~11節 詩篇119篇67節~72節

私たちは家族を選んで生まれることはできません。もし、私たちの誕生が偶然ならば、それこそ、貧しい家庭に生まれた人は運が悪かったということになります。しかし、神の計画によって生まれたのならば、どんな家庭に生まれたとしても、そこには神の計画があり意味があります。

へブル人への手紙の著者は、12章5節から父と子の関係を通して、私たちに与えられる試練や苦しみについて説明しています。5節6節「そしてあなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。』」私たちが受ける苦しみは、神の愛のゆえに与えられる苦しみ、試練であるという考えは、ヨブ記や箴言にも出てきます。確かに、苦しみや試練にはそのような意味があるでしょう。また、7節8節「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。」とあります。ここで大切な事は父と子の間に信頼関係があるということです。いくら親子であっても、信頼関係が無いのに訓練を強制すれば、それは虐待になってしまいます。本当に子どものことを思って訓練(しつけ)しているのか、それとも、怒りのはけ口として訓練(しつけ)をしているのか、そこには大きな違いがあります。スポーツの世界でも同じことがいえます。コーチは選手を愛して、選手のために訓練し、選手はコーチを信頼して訓練を受けるなら選手は虐待とは思いません。しかし、信頼関係もなく、不当な訓練や苦しみを与えるなら、選手にとってそれは虐待になります。神と私たちの関係も同じことがいえます。神に愛されていることがわかる時、どんな苦しみも耐えることが出来ます。しかし、信頼関係が無い時、荒野でのイスラエルの民ように不平不満をいだくことになります。

 9節10節「さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。」ここで著者は、肉の父と霊の父の違いを説明しています。肉の父は「自分が良いと思うことに従って訓練を与える」霊の父は「私たちの益のため、ご自分の聖さにあずからせるために訓練を与える」これは大きな違いです。また、著者はこのように勧めています。11節「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」訓練は苦しいもので、楽な訓練はありません。しかし、その苦しみを乗り越えて、得たものは何にも代えがたい喜びになります。

 詩篇119篇67節68節「苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。しかし今は、あなたのみことばを守ります。あなたは いつくしみ深く、良くしてくださるお方です。」  71節72節「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。あなたの御口のみおしえは 私にとって幾千もの金銀にまさります。」苦しみのもう一つの意味は、苦しみを通して神と出会い、神との関係を結ぶことが出来ることです。その事は、ヨブ記にも指摘されています。苦しみを通して神と出会うことは真実なことです。苦しみに遭わなければ、神の必要を覚えることなく、神の助けも必要ないことでしょう。私たちは苦しみを通して、神に助けを求めて、神と出会うことが出来ます。ただ、大切な事は、神の愛に出会うことです。それには、自分の罪を認め悔い改めることが必要です。

その事は、ルカの福音書でイエスが話された「放蕩息子」のたとえ話に分かりやすく説明されています。このたとえ話には、二人の息子が登場します。弟は父から財産を受け取ると、遠くへ旅立ちました。そして、財産を使い果たし、食べるにも困ってしまいました。そこで、彼は、父の所で何不自由なく暮らしていたことを思い出しました。彼は、この苦しみを通して、父の許から離れて自分勝手に暮らしたことが罪であったことに気が付きました。そこで、彼は父の家に帰る決心をしました。これが「悔い改め」です。ところが、息子が家から遠くにいたのに、父親は息子を見つけて、走り寄って彼を抱きしめたとあります。そこに、イエスは私たちが悔い改めて神に帰る時、私たちを喜んで受け入れて下さる神の姿が表されています。父親は彼に対して、口づけし、良い衣を持ってこさせ、指輪をはめ、履物を履かせました。ここに息子をしもべではなく、自分の息子として受け入れた父親の姿が表されています。さらに父親は帰って来た息子のために盛大な宴会を催したのです。

しかし、兄息子は父親の行為を赦すことが出来ませんでした。財産を受けて家を出て、自分勝手な生活をし、お金が無くなったから帰って来た弟息子を受け入れ、罰することなく、宴会さえする父親を赦すことが出来ませんでした。彼は父親に言いました。 ルカの福音書15章29節30節「しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰ってくると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』」確かに、兄息子の言うことも正論です。こんなだめな弟に何の罰も与えず、宴会をするなど父親として甘すぎるといえます。では、この兄に弟に対する愛はあるでしょうか。この兄は、弟を受け入れないばかりか、弟であることも拒否しているようです。神は神として、公平に裁かなければならない裁判官としての職務があります。しかし、それと同時に、人を愛する気持ちもあります。神はこの異なる二つの感情のゆえに、苦しみ私たちの罪の赦しのために、ご自身のひとり子を犠牲にされたのです。神は私たちを聖めご自身のものとするため、また、苦しみを通して私たちが神と出会うために、私たちに苦しみや試練を与えられます。しかし、それだけではなく、私たちを愛しているがゆえに、私たちが悔い改めるならば、赦して下さる神でもあります。私たちがこの二つのことを理解していなければ、苦しみに耐えることはできません。苦しみには、他にも意味があります。しかし、苦しみの先に恵みがある事も確かです。長いトンネルがありますが、出口のないトンネルはありません。トンネルが長いほど忍耐が求められますが、神はすべてをご存知で私たちを助けてくださいます。自分の罪を認め、悔い改めて神の許に帰り、神によって罪赦された者だけが神の愛を知ることが出来るのです。