父なる神の無条件の愛

「父なる神の無条件の愛」ルカ15章11節~32節(父の日)

時代と共に父親の姿(父親像)も変わってきました。戦前の父親は恐いお父さん像でした。

しかし、現代は優しいお父さん像でファミリーパパが増えてきました。皆さんの家庭はどうでしたか。また、今はどのような父親像でこどもに接しているでしょうか。

先週、カウンセリングの学びで、「家族の発達段階」というテーマで学びました。家族と言うのも発達段階があり、それに合わせて対応をしていかなければ問題が生じます。具体的に言うと、子どもの発達と共に家族関係も変化していかなければならないということです。子供が幼児期には子育てが中心になります。小学生、中学生と子供が成長するにしたがって、家族関係も変化し、それに対応しなければなりません。特に子供が青年期に入ると、親と子の距離関係が難しくなります。何でもかんでも親の言う通りにはなりません。この時期、大切なことは、子どもを信じて、子どもと距離を取り、子どもではなく一人の人格として付き合うことが大切です。親にしてみれば、いつまでも子どもで、危なっかしく感じることもありますが、そこは自分の子を信じて、ゆだねることです。たとえ失敗したとしても、それで人生が終わるわけではありません。失敗も人生の大きな教訓になります。倒れたときは、立ち直るのに助けの手を指し伸ばせば良いのです。失敗する前から、子どもに自分の価値観を押し付けるなら、この時大事な「自我の成長」を抑えることになります。そのことの方が、後になって大きな問題となります。子どもの頃は教育的な接し方が大切ですが、子どもが成長したなら、それを見守ることも親の大切な役割なのです。

今日は、ルカの福音書15章から有名な放蕩息子のたとえ話を学びます。

1.背景について。

前回もお話しましたように、たとえ話の場合、どのような状況で、そのたとえ話が話されたのか、その背景を知ることが第一に大切なことです。イエス様がこのたとえ話をされたのは、ルカの福音書15章1節2節を見ると、イエス様が当時、人々から嫌われていた取税人や罪人たちと共に食事をしているのを見て、パリサイ人、律法学者たちが、イエス様を批判して「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」と言いました。それに対して、イエス様はパリサイ人律法学者たちにこの三つのたとえ話をされたのです。

2.99匹の羊を置いて、失われた一匹の羊を探す羊飼いのたとえ話(1節~7節)

このたとえ話で中心となるのは、一匹の失われた羊を探し回る羊飼いの姿です。また、羊飼いが失われた羊を見つけたときの喜びの大きさを表しています。ここで失われた羊を表しているのが、今、イエス様と食事をしている取税人や罪人です。律法学者、パリサイ人たちから見れば、神の戒め律法を守らない者は神様から失われた者です。しかし、イエス様はその神様から失われた人々を招くために来た者であり、罪人が悔い改め神との関係を回復することが神様の最大の喜びであることを表したたとえ話です。

3.失われた一枚の銀貨を探す女性のたとえ話。(8節~10節)

このたとえ話も、先ほどの一匹の失われた羊を探すたとえ話と同じです。ここでは、10枚の銀貨のうち一枚の銀貨を失くしてしまいました。当時、女性が結婚するために準備するお金が銀貨10枚であったと言われています。そうであるならば、彼女が失くした一枚の銀貨はどれほど大切な一枚でしょうか。彼女はそのために一生懸命一枚の銀貨を探しました。そして、その失くした1枚の銀貨を見つけたときの、彼女の喜びはどれほど大きなものでしょう。取税人や罪人が悔い改めて神様との関係を回復することは、それほどの喜びが神様にあることをイエス様は人々に紹介されたのです。

4.放蕩息子のたとえ話。(11節~32節)

このたとえ話には、三人の人物が登場します。ここで父親は神様を表し、弟息子は取税人、罪人を表しています。また、兄息子はパリサイ人律法学者を表しています。ここで弟息子は父に父が亡くなった後に受け継ぐ財産を、父が生きている今、私に財産を分けてくださいと申し出ました。父は兄弟二人に財産を分けてやりました。それから、弟息子は全財産を持って遠い旅に出かけました。ここで、父は弟息子を止めませんでした。まだ、弟息子は未熟で失敗して帰ってくることがわかっていたかもしれません。しかし、父は弟息子を信じてその行動を許したのです。そして、弟息子は遠い国に旅立ち、その国で財産を使い果たしてしまいました。また、飢饉により食べるにも困る状況に追い込まれてしまいました。それは、父親が心配した状況かもしれません。ここで、弟息子は、父のもとで幸せに暮らしていた頃のことを思い出しました。そこで、彼は自分の罪を認めて父の家に帰ることを決心したのです。ところが、弟息子が家に帰る前に、父親が弟息子を見つけて走り寄り、彼を抱きしめたとあります。なぜ、父親は遠くにいる弟息子を見つけることができたのでしょうか。それは、父がいつも弟息子が帰ってくることを待ち望んでいたからです。この父親は一度は、弟息子を失いましたが、彼が家に帰ることによって、もう一度、父は弟息子を取り戻したのです。この事は、一番初めの失われた一匹の羊を見つけた羊飼いと同じ喜びです。また、2番目の失った一枚の銀貨を見つけた女性の喜びと同じ喜びが表されています。先週、狭山教会で特別礼拝の時に話された堀肇先生の話を紹介します。堀先生はこの場面で、この弟息子は悔い改めて父に赦されたわけではないと言われました。父は失われた弟息子が帰って来たそのことを喜んで彼を受け入れたと言われました。私は今までこの個所を読んで、この弟息子は本当に悔い改めたのか疑問に思っていました。ただお腹がすいて食べるのに困ったために父のもとに帰って来たんじゃないか、それは悔い改めと言えるのか。聖書が教える救いは、自分の罪を認めて悔い改め、イエス様を救い主と信じることで与えられる神様の恵みです。堀先生はこの場面で、この弟息子は悔い改めてはいないと言われました。しかし、神様の無条件の愛のゆえに父は弟息子を愛して受け入れたと言われたのです。これは新たな発見でした。確かに私たちの愛は条件付きの愛です。何か良いことをしたから愛する。人よりも能力があるから愛する。これが条件付きの愛です。だとしたら悔い改めることも条件になります。しかし、神様の愛は無条件の愛です。弟息子が悔い改めようが、悔い改めていなかろうが、神様には関係ありません。父が罪人のままで弟息子を愛したように、神様は罪人である私たちを無条件で愛してくださるのです。

ここでもう一つ問題になるのが兄息子の態度です。兄は、失敗してボロボロになって帰って来た弟を父がそのままで赦して、彼のために宴会を開いたことを許せませんでした。ここにパリサイ人律法学者たちの姿が現されています。また、ここに人間の存在をその能力でしか認められない人間の姿がここに表されています。兄は努力して父に仕えることに価値があり、自分勝手に出て行って失敗した弟の価値を認めませんでした。特に、努力して成功した人にこの傾向があります。人間の価値を能力で量る考え方です。

マタイの福音書20章にぶどう園で働く労務者のたとえ話があります。ここで最初の労務者は朝早くに雇われ一日1デナリの契約を結びました。それから午後5時ごろ雇われた者は1時間しか働きませんでした。仕事が終わりぶどう園の監督は午後5時ごろ雇われた者たちから賃金を払いました。ところが主人は彼らが1時間しか働かなかったのに、1日分の賃金1デナリを支払いました。それを見た朝から働いた者たちは、1デナリ以上の賃金がもらえるのではと期待しました。しかし、彼らに支払われたのも1デナリでした。朝から働いた者は主人に文句を言いました。それは、1時間かしか働かなかった者と同じに扱われたからです。このようにまじめに一生懸命努力した者は、何の努力もしない者と一緒にされることを許すことができません。兄息子は弟息子も父も憎みました。その姿は、罪人や取税人を許すことができず、それを許すイエス様をも憎んだパリサイ人、律法学者の姿です。

カウンセリングでストロークと言うのを学びました。人間は一人で生きているのではなく、周りとの関係で生きています。家族や職場で。ストロークとは周りの人に与える影響力と考えたらわかりやすいです。また、ストロークにはプラスのストロークとマイナスのストロークがあります。良い影響を与えるストロークをプラスのストローク。悪い影響を与えるストロークをマイナスのストロークと言います。例えば、親のお手伝いや良いことをした時に子供に与える褒め言葉がプラスのストロークになります。また、失敗した時や、親のゆうことを聞かない時に子供を叱る言葉はマイナスのストロークになります。プラスのストロークを多く受けた子供は自信を持ち成長しますが、マイナスのストロークを受けて育てられた子供は、何事にも自信がなくネガティブな性格を持つ大人に成長します。また、ここで一つ考えることは、良いことをした時に褒める、悪いことをした時には叱るというストロークだけでは十分ではありません。プラスのストロークを得るために、子どもは親の期待に応えようと必死に努力しますが、それができない時、心が折れて、神経症などの症状を現すことがあります。最高のストロークは、良いことをした時の褒め言葉ではなく、存在そのものを褒めるストロークだと言われます。テストで良い点を取ったとか、親の言うことを聞く良い子だから誉めるのではなく、その存在自体を褒めることです。「あなたがいてくれてありがとう。」「あなたはいてくれるだけでお母さんはうれしい」とか、それは、条件付きの愛ではなく、神様の無条件の愛です。子供は両親の無条件の愛を受けて初めて安定した精神の基盤を得ることができるのです。