「王子の結婚披露宴に招かれた者」マタイの福音書22章1節~14節
ネパールでの地震や日本でも噴火など、あちらこちらで自然の災害が起きています。被害の大きさを見ることによって、あらためて、自然の力の大きさに驚かされます。東日本の災害の時も、実際に被害にあわれた方が撮られたビデオを見ましたが、目の前に車が流され家が流されるのを見て恐怖を感じました。自然の背後に神様がおられます。それを考えるとなぜ神様はそのような災害で人の命を奪われるのか理解に苦しむことがあります。しかし、神様は無駄に人の命を奪う方ではありません。災害の背後に神様の特別なご計画があるものと信じます。しかし、それは、人間に全てを明らかにされていないので、私たちはただ、神様の愛を信じ全てを神様にゆだねるしかないのです。
聖書における最大の災害はノアの時代の洪水です。なぜ、神様は洪水で人々を滅ぼそうとされたのでしょうか。聖書はそれを人間の悪が増大したためだと説明しています。神がこの地上を創造された時、罪は存在しませんでした。罪は人間の先祖アダムとエバが神様の戒めを破った時から存在するようになりました。神様はこの地上を神様の御心に叶うものとなるように、地上の管理を人間に委ねましたが、アダムとエバの子孫は、自分の欲望を満たすために地上を悪をで満たしてしまったのです。そこで、神は人を創造したことを悔やみ地上を洪水で滅ぼされることを決められたのです。しかし、その時代ノアだけは神様の御心に叶う唯一の人でした。そこで、神はノアに箱舟を作るように命じられたのです。しかし、それは、ノアの家族だけではなく、ノアを通して神様の計画を信じる者全てに与えられた救いのしるしでした。しかし、人々は洪水の前まで人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていたとあります。ノアが箱舟を作っているのを見ても誰も無関心で、手伝う人もいませんでした。そこで、箱舟に入ったノアとその家族だけが洪水から救われたのです。イエス様はこの出来事を終わりの日のしるしだと言われました。人の子が来る(世の終わりの時)も同じように人々は飲んだり、食べたり宴会さわぎをしていると言われました。今の時代、ノアに代わって教会が私たちが世の終について宣べ伝える責任を担っています。しかし、その言葉を信じるのはごくわずかです。多くの人が、この世の楽しみで一日を過ごしています。今の時代、いつ人の子イエス様が来られてもおかしくないほどの最悪の状況です。まだ、世の終わりが来ないのは、救われる人がまだ残されているからだと聖書は私たちに教えています。
イエス様は群衆にたとえ話で世の終わり、天の御国についてお話しになられました。先程、マタイの福音書22章1節から14節までをお読みいたしました。たとえ話を正しく理解するするために、たとえ話に登場する一人一人が誰に例えられているのかを正しく知る必要があります。22章に登場するたとえ話で、王は誰をたとえているでしょうか。答えは神様です。では、王子は誰でしょうか。答えはイエス様です。では、王に招待された人々は誰を指しているでしょうか。答えは祭司、律法学者たちです。王が招待した人々を招きに、しもべを遣わしましたが、彼らは宴会に来ようとしませんでした。それは、神様が救い主イエス様を人としてユダヤの国に遣わしたのに、祭司、律法学者たちはイエス様を受け入れなかったことを表しています。それで、王はどうしたでしょうか。10節「それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」とあります。この時、集められた良い人、悪い人は、誰を指しているでしょうか。答えは、貧しいユダヤ人、罪人、異邦人である私たちです。つまり、私たちは招待された者ではありませんが、王に招かれた者なのです。ここで問題になるのは、誰でも招かれているのに、一人だけ礼服を着ないで宴会に参加している人がいました。王様主催の宴会には王様がお客のために準備した礼服がいつも備えられていました。王様の宴会ですから人々はその宴会にふさわしい服装をして参加しなければ、宴会自体がだめになってしまいます。それゆえ王室では、礼服を持たない人のために礼服を準備するのが習わしでした。ところが、この男性は、王様が準備した礼服を着ないで宴会に参加したのです。明らかにこれは王様を侮辱する行為です。それゆえ、彼は外の暗闇に放り出されてしまったのです。この出来事を通してイエス様は私たちに何を教えようとされたのでしょうか。ここで登場する礼服はイエス様を表しています。神の国で行われる宴会に参加するためにイエス・キリストによる救い、贖いが必要だという事です。もう一度思い出してみましょう。宴会に招かれる基準は、条件は何もありません。良い人でも悪い人でも神様に招かれています。しかし、宴会に出席するためには、礼服、イエス様の命が必要だという事です。イエス様の救いなくして誰も天国の宴会に出席することができないのです。
ノアの時代、人々を救うために神様は、彼に箱舟を作るように命じられました。ノアは何十年もの歳月をかけて箱舟を完成させましたが、ノアの家族8人だけしか助かりませんでした。それゆえ、神様は世の終わりから一人でも多くの人を助け出すために、神の一人子イエス様を人としてこの地上に遣わせ、人々の罪の身代わりとして十字架の上でイエス様の命を取られたのです。もし、他に人々を救う方法がるならば、イエス様は人として生まれることもなく、十字架で殺されることも無かったでしょう。私たちを救い、天の宴会に私たちが参加するためにはイエス様の犠牲、命が必要なのです。そのために、イエス様は一度も罪を犯すことがなかったの十字架に付けられて死んでくださったのです。世の終わりでなくても、全ての人に命の終わりの時が訪れます。私たちの最大の恐れは死です。死は誰にでも公平に訪れ、人間の力ではどうすることもできません。聖書には死が二種類あると教えています。肉体の死と魂の死です。肉体の死はどうすることもできませんが、魂の死は避けることができます。人は死ぬと肉体は滅び、魂だけが残ります。その魂は自分の罪の故に神の裁きを受けなければなりません。しかし、私たちが受ける神の刑罰は、イエス様がすべて十字架の上で受けてくださいました。それゆえ、イエス様を神の子と信じる者の罪は赦すと父なる神が約束してくださいました。それゆえ、イエス・キリストを信じる者は天の御国に自分の住まいが備えられているのです。死の恐怖は死後どうなるかわからない所に有ります。しかし、明確に天の御国に私たちが入ることができると約束されていたらどうでしょうか。もう、私たちは死を恐れる必要はありません。天地を創られた神様が約束してくださったからです。池の周りにフェンスがはられ、「警告、池に近づくな」との看板があります。誰かがこの警告を無視して池に近づき、溺れて死んでしまいました。誰の責任でしょう。警告を無視して池に近づいた人の責任です。警告とはそのようなものです。聖書は、世の終わりが近いと警告しています。神の国の宴会には全ての人が招かれています。良い人でも悪い人でもです。問題は、イエス・キリストの十字架の死は、自分の罪の身代わりであることを信じるか、信じないかです。聖書は、イエス・キリストを信じるものは、みな救われると教えています。これは、警告ではなく、神様の招きのことばです。